扶余店、ですか…
以下、サーチナより転載
日本の大和民族のルーツとは? 韓国人学者の主張とは…中国メディア(http://news.searchina.net/id/1658274?page=1)
日本の祖先については諸説あるが、扶余(ふよ)族が日本人のルーツだという説もあるという。扶余とは、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族や国のことだが、中国メディアの快資訊網は22日、韓国のある学者の主張を紹介した。日本の大和民族のルーツは中国華北地区を経由した朝鮮半島の扶余(ふよ)一族にあるのだという。
記事が紹介している韓国人学者がそう主張する理由の1つは、日本語も韓国語も中国語にルーツがあるためだという。さらにこの説によると、一連のこの過程はおおよそ唐の時代には終わったとされている。
記事は、中国で隋・唐王朝が中国を統一し、遼東地区や楽浪をも取り戻そうとして高句麗と衝突したと紹介。この戦争において、隋・唐は新羅と組み、高句麗と百済を滅ぼした。しかし、唐王朝は吐蕃の攻撃に備える必要もあり、投入できる力が限られていたため、結果的に遼東と楽浪の半分しか守れず、新羅が漁夫の利を得て朝鮮半島を統一したのだと説明した。
このようにして、中国華北の扶余族による中国大陸の統治が完全に瓦解したと記事は分析。日本は遠く海を隔ており、当時の中国の実力も海を渡るほどではなかったため、扶余族は最終的に日本へ渡って勢力を広げ、大和民族となったと主張した。そして、韓国人学者が「これは非常に多くの中国語が高句麗語と日本語に見られることからも明らか」と主張していることを紹介した。
歴史を紐解けば、朝鮮半島や中国から多くの人が日本に渡ってきたのは事実だ。この韓国人学者と似たような主張は日本国内にもあり、議論の対象となっているものの、その人びとが大和民族のルーツというのは極端な主張なのではないだろうか。(編集担当:村山健二)
以上、転載終わり
まず間違いから…、「日本語も韓国語も中国語にルーツ」…
中国語は「孤立語」、日本、韓国語は「膠着語」と文法体系がまったく異なるのでルーツとするのは…
で、新羅のことを書いていますが…
『梁書』新羅伝には
新羅者、其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、不與馬韓同。又辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王、明其流移之人故也、恒為馬韓所制。辰韓始有六國、稍分為十二、新羅則其一也。其國在百濟東南五千餘里。其地東濱大海、南北與句驪、百濟接。魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。其國小、不能自通使聘。普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。
とあり
訳文は
新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に五千余里。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。小国なので、自ら通使を派遣すせることができなかった。普通二年(521年)、王姓を秦の名から募り、初めての使者は百済の遣使に随伴して方物を献じた。
と、高句麗や百済とは別系統のよう…
新羅→扶余とくれば、弓月と秦氏…
これ、けっこうマジかも…