纒向遺跡 | andrewさんのブログ

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奈良新聞(http://www.nara-np.co.jp/)の新春連載、「神話から歴史に~考古学からみた皇室の始まり」…


第2回目は「纒向遺跡」

 

以下、転載


邪馬台国の有力候補地として知られる桜井市の纒向遺跡は、3世紀初めに突然形成された大集落遺跡だ。他の集落遺跡にはない様相を見せ、初期ヤマト王権成立の地として注目を集める。
 

遺跡内には箸墓古墳や纒向石塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳など発生期の古墳が集中的に築かれた。「前方後円墳」と呼ばれる墳丘の形をはじめとする画一的な古墳は、全国の首長の共通の墓制として広まった。
 

一方、遺跡からは九州から関東にわたる広範囲の地域の土器が出土。他地域から持ち込まれた土器は全体の15~30%を占め、ヒトやモノが纒向に集まった様子がうかがえる。
 

「魏志倭人伝」は、倭国では小国が乱立して争いが続いたため、女子を共立して王としたと記す。列島内では2世紀末ごろから3世紀にかけて、広域の政治的な連合体が形成された。
 

橋本輝彦桜井市教育委員会文化財課長は「古墳の動向は魏志倭人伝の記述を裏打ちしている。土器も含めて政治的、祭祀的、経済的にもその中心は纒向だった」とみる。
 

さらに辻地区では3世紀前半の大型建物が見つかり、こうした見方を補強する。南北約19㍍、東西約12㍍の規模は当時としては国内最大。ほかに3棟の建物も軸線を東西にそろえて計画的に配置されていた。大型建物は王の居館とみられている。
 

同じ場所で平成年2月には、4世紀中ごろの大規模な区画溝も検出。首長居館をめぐる周濠(ごう)の可能性があり、3世紀以降もこの地が重要視されていたことが分かった。
 

日本書紀によると、纒向の地では11代・垂仁天皇が「纒向珠城宮」、12代・景行天皇が「纒向日代宮」を構えた。実在した最初の大王という説がある代・崇神天皇も、纒向から近い桜井市金屋で宮を営んだ。
 

橋本氏は「すぐにイコールとまでは言えないが、纒向周辺には王権中枢が置かれた記述がある。何らかの関わりを考えるべきでその意味合いは大きい」とし、「纒向周辺には大王やその後の天皇家のルーツがある」と語る。

 

以上、転載終わり

 

「邪馬台国の有力候補地として知られる桜井市の纒向遺跡」とありますが、黒塚から三角縁が出たのでほぼ決まり、そして記事にある大型建物で決定した、いってよいでしょう。

 

邪馬台国は纒向です。

 

が、記事では纒向から大和王権へと繋がるとしていますが…

 

私は…

 

魏志倭人伝には馬がいなかったと記されています…

 

が、6世紀後半の藤の木古墳(奈良・斑鳩)から馬具が出ていることから考えると…

 

邪馬台国ではなく、誰かが馬に乗ってやって来た…

 

これが大和王権に…

 

と、私は考えています。

 

これなら連載1回目の「神武東征」にも合いますし…

 

が…、解せぬことが…

 

邪馬台国、投馬国…

 

「馬」という漢字が入っています。

 

「ま」という音に「馬」を当てたのか…、馬がいたのか…

 

どっちなんでしょうか…