ロ日和親条約 | andrewさんのブログ

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昨日、2月7日はロ日和親条約(日本国魯西亜国通好条約)が締結されて160年。


The voice of Russia にリュドミラ サーキャン(Людмила Саакян)氏の記事が掲載されていました。


以下、転載


ロ日和親条約締結160周年;全てはとても肯定的に始まった


今から160年前の1855年2月7日、下田でロ日和親条約が結ばれた。これは、またの名を下田条約とも呼ばれ、9つの条項からなり、その主な理念は、両国間の「恒久的平和と誠意ある友好」だった。条約に署名したのは、ロシア側はエフィーム・プチャーチン副提督、日本側は徳川幕府の勘定奉行・ 川路聖謨 (カワジトシアキラ)だった。この文書は、ロシアと日本の間の歴史上初めての外交合意となった。


当時両国にとって条約は重要なものだった。なぜなら事実上、この合意により、ロシアと日本の間の国境線の画定がなされ、二国関係発展の方向性が決定づけられたからだ。条約によって、エトロフよりも北のクリルの島々がロシア領となり、クナシリ、エトロフ、シコタン,ハボマイが日本領となった。なおサハリンは、両国に分けられることなく、これまで通り混住の島とした。 ロシア船の為に、下田、函館、長崎の3つの港が開かれた。そしてロシアは、貿易における最恵国待遇を獲得、上記の3つの港町に領事館を開く権利を得た。下田条約調印の知らせは、大きな満足を持ってロシア政府に受け止められた。1856年秋下田で批准書の交換が行われ、条約は効力を発した。


現代から見た下田条約の意義について、拓殖大学のワシーリイ・モロヂャコフ教授に、意見を聞いた―


「これは、最初の条約文書だ。そこから、今日のロ日関係の全てが始まっている。もうそうした理由だけで、この文書には他にはない意義がある。恐らくそれは、政治的というよりは、むしろ象徴的なものだろう。つまり下田条約は、政治状況に左右されることなく、常に重要だという事だ。10年前、拓殖大学は『プチャーチンからプーチンまで』という考え方を提起した。これは今も少しも古びていない。ロ日関係の歴史のドラマチックな要因やあらゆる問題を考慮すれば、プチャーチンは常に、聖ニコライや後藤新平同様、極めて肯定的で記念碑的存在であり続けている。下田条約締結160周年は、ロシアと日本の二国間関係の出発点というばかりでなく、必要な時に必要な場所にいた人間を善意を持って思い出す、よい機会だ。そうした人達がいたからこそ、ロ日関係は、大変好ましいスタートを切れたのであり、この事を忘れずにおく必要がある。」 


よく知られているように、下田条約は、1904年ロ日戦争開戦と共に、その存在を停止した。しかし現在それは、実際上シンボリックな性格を持っている。また1981年から日本では、条約の調印日2月7日は「北方領土の日」とされたが、それさえも条約の本質を少しも損なうものではない。


ここでまたモロヂャコフ教授の意見を紹介したい―


「我々は、この条約を、他のどのようなものもそうであるように誇りにする必要がある。なぜなら、それぞれの条約が、我々の国の間の関係発展における前進の一つの歩みだったからだ。肯定的な部分に注意の力点を置くべきだと思う。否定的な部分ばかりに目を向けたがる人々は、日本にもロシアにもいる。私は日本人については責任が持てないが、ロシアにおいてそうした人々は、国益に反して行動している。その意味でも、我々は、大変困難な中で活動したプチャーチンのような人達を思い起こさなければならない。」 今から10年前の下田条約150周年に際し、プーチン大統領は、次のように指摘している―「ロシア人と日本人の交流の歴史は、3世紀以上に渡る。しかしロシアと日本の初めての条約が、その交流発展の中で特別な役割を果たした事は疑いない。条約締結交渉は、忍耐と善意、歩み寄り達成を目指す双方の意欲のおかげで、成功裏に終了した。この我が先人達の気高い志を、我々は今も忘れてはならない」


以上、転載終わり


続きを読む: http://japanese.ruvr.ru/2015_02_07/282744800/


まったく、報道されませんでしたね。


記事では勘定奉行川路聖謨の名がでてきましたが、もう1人の日本側全権は大目付格筒井政憲、そう筒井順慶のご子孫ですね。


この条約で日露の国境線が引かれたわけですが…


ロシアの皆さん、戻しません。


北方4島の返還とと樺太の混住…、良いじゃないですか。