47NEWS(http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013020901000910.html )に
以下、転載
大豪族・蘇我馬子邸の塀跡か 大型柱穴、宮殿クラス
飛鳥時代の大豪族蘇我馬子(生年不明~626年)の邸宅とみられる建物群跡が確認された奈良県明日香村の島庄遺跡で、塀跡とみられる大型柱穴列が見つかっていたことが9日、分かった。2011、12年に村教育委員会が調査していた。
この遺跡で建物群跡のものとみられる7世紀前半の塀跡が見つかったのは初めて。調査した西光慎治主任技師は「柱穴の一辺が1メートル以上あり、宮殿クラスの規模といえる。立派な塀で囲われた邸宅だったのではないか」としており、天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる馬子の邸宅規模を探る貴重な手掛かりになりそうだ。
柱穴は8基で、馬子が住んだ正殿とされる大型建物跡の西80メートルで見つかった。
以上、転載終わり
と、蘇我馬子の邸宅跡発見の記事。
現在は塀跡ですが、今後の発掘作業に期待です。
さて、蘇我氏といrば…悪者
皇室をないがしろにし、聖徳太子一族を滅ぼした…悪者
大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子(後の天智天皇)に討たれ、滅亡しています。
はたして…。
私の考えは違います。
皇室をないがしろにした中でも有名な“甘樫丘”の邸宅は都を守る“砦”の可能性が発掘の結果でてきました。
また、聖徳太子一族を滅ぼした…、とうのも解せません。
蘇我氏と聖徳太子一族は“血”が濃すぎる。
多分、厩戸皇子(聖徳太子)もその子、山背大兄王も帝位に就いていたのでは。
だから、乙巳の変のときの天皇は皇極ではなく山背大兄王で、蘇我蝦夷と一緒に討たれたのでは…。
さらに、ですが乙巳の変は中大兄皇子(後の天智天皇)ではなく大海人皇子(のちの天武天皇)だったと私は考えています。
中学校のテストでこんな回答したら…、職員室呼ばれるな。