邪馬台国・卑弥呼の有力候補地である奈良県桜井市の纒向遺跡から卑弥呼の頃の柱穴100個以上と卑弥呼以後の溝跡が発見されました。
以下、産経ニュース、読売新聞より転載
産経ニュース(http://sankei.jp.msn.com/life/news/130202/art13020213480002-n1.htm )
卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、女王・卑弥呼が君臨した時期にあたる3世紀前半の小型建物の柱穴が100個以上見つかり、市教委が1日、発表した。約60平方メートルの狭いエリアに集中し、小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。遺跡の中心部で柱穴が集中して確認されたのは初めてで、専門家は「年に数回、卑弥呼が特別に執り行った祭祀用の建物跡ではないか」とみている。
市教委は過去の調査を踏まえ、遺跡の中心部は、卑弥呼の宮殿とも指摘される3世紀前半の大型建物を含む4棟の建物が東西に並んでいたと推定。今回、昭和53年に柱穴の一部が確認されていた最も西側の建物の推定地を調査し、この建物に関連する柱穴は確認されなかったが、周辺で直径10~60センチの柱穴を100個以上確認した。
市教委によると、建物群の入り口にあたるとみられ、「特別な空間」として利用された可能性が高いという。古代祭祀に詳しい辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が年に数回、食物の収穫を感謝する祭祀のたびに建てられ、祭祀後に取り壊された複数の小型建物の痕跡ではないか」と推測している。
一方、今回の調査では、4世紀中頃に整備された豪族居館の周濠(しゅうごう)跡の一部も確認された。過去の調査を踏まえ、周濠の規模は東西約65メートル、南北約54メートル、幅は最大5・8メートル、深さ最大60センチ以上と判明した。
市教委は「3世紀の宮殿エリアを囲むような周濠で、この周辺のエリアが、世紀をまたいで政治や祭祀の神聖な土地として利用されていたのではないか」とみている。
現地説明会は3日午前10時から。JR桜井線巻向駅の西方徒歩約5分。
読売新聞(http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130202-OYO1T00320.htm?from=main3 )
大和王権の中枢?溝出土…纒向遺跡
奈良県桜井市の纒向遺跡で、大規模な施設の外周を巡っていたとみられる4世紀中頃の溝が東西45メートル、南北7・5メートルにわたって出土し、市纒向学研究センターが1日、発表した。邪馬台国の時代から約1世紀後の遺構で、専門家は、この地で成立したとされる大和王権の中枢部だった可能性を指摘している。
見つかった溝は幅4・7~5・8メートル、深さ20~60センチで南西の角にあたる。これまでの調査では、南東の角が出土しており、東西の長さは57メートルと確定。南北は地形などから、54メートル以上あるとみられる。
溝の内側では、同時期の建物跡などは確認されていないが、祭祀用の刀形木製品(長さ31・5センチ)などが出土。重要な祭祀場か、有力者の居館だった可能性も考えられるという。
付近では、邪馬台国の宮殿との説もある3世紀前半~中頃の大型建物跡が出土しており、白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「時代は離れているが、王権が継続して利用していた場所ではないか」と話している。
ただ、邪馬台国時代以降、この周辺で誕生したとされる大和王権は、どこに宮殿があったのかなど、実態はわかっていない。「日本書紀」には垂仁天皇の「纒向珠城宮」、垂仁天皇の子で日本武尊の父にあたる景行天皇の「纒向日代宮」という宮殿が登場しており、関連が注目される。
現地説明会は3日午前10時~午後3時。雨天中止。JR巻向駅の近く。10日には午前10時から、東京・よみうりホールで開かれるフォーラム「纒向出現」(読売新聞社後援)でも調査成果を報告する。問い合わせは同センター(0744・45・0590)。
石野博信・兵庫県立考古博物館長の話「溝の規模から内側は特別な空間で、聖なる儀式が営まれていたとも考えられる。大和王権の宮殿との関係が、明らかになることを期待したい」
以上、転載終わり
両方とも興味深い内容です。
祭祀用の建物がそのたびに造り返られていたようですが、これは“伊勢神宮”の遷宮を思いおこさせますね。
また、卑弥呼以後の溝については記事では“継続”していたのではと考えているようですが、私的には邪馬台国と大和は“神武東征”を考えると別物だったと思っています。
研究が進むことに期待しています。