昨日、書きました長篠の合戦で使われた「火縄銃」。
戦の様相を一変したともいいます。
また、種子島に入ってきたのをあっという間に量産、世界(たぶん)一の保有国となりました。
まさに、日本人のお家芸「創意」「工夫」「発展」の見本というべきものですが…。
この火縄銃、生産での「創意」「工夫」「発展」は行われたのですが、重大な「発展」がありませんでした。
「銃剣」です。
当時の火縄銃の使用法は、いまの大砲のような感じ。
防御の場合は長篠合戦にみるように有効ですが、攻撃となると「支援」装備となります。
たしか「大坂夏の陣」のとき伊達勢は火縄銃の装備率が5割を超えていたとか。しかし、真田の槍隊に突破されたものだからそのまま権現様の所へ突撃をゆるし堺・南宋寺に眠るはめになってしまいました(ややこしことをさらっとかきました)。
銃剣が「発展」していれば、攻撃時の支援装備だけでなくそのまま突撃に移ることができるのですが。
そして、昨日書いた戦列歩兵へと発展していったと考えます。
戦国時代(鉄砲が装備されて後)、火縄銃は主要装備ではなかったと考えています。
なぜなら、甲冑を脱いでいない。
欧州の戦列砲兵は甲冑を着けていません。
必要ないから。
いくら鉛の弾丸でも防ぐにはそれなりの「厚さ」が必要。
甲冑、お高いそうです(家一軒建ったとか)、それに重い。
着ていていっしょなら脱いだはずですが…。
おっと、脱線してきました、失礼。
日本人のお家芸である「創意」「工夫」「発展」の「発展」が「銃剣」というかたちで火縄銃に生かせられなかったのは何故か、私には不思議です。