宗教の「死」への挑戦という意味では「輪廻」という考え方は私的には旨い考えだと思います。
輪廻は生まれ変わり、すなわち「天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道」を回ります。
私はキリスト教徒ですが、過去のブログで私の過去生について触れたことが何度かあります。
そう、初代のシベリアから初まり、平安時代の武士や中世ヨーロッパでチャクラに損傷を受けたことなどです。
話を戻します。
この「輪廻」を使えば都合のよいことが生まれます。
何故自分はこの世に生を受け死んでいくのか、です。
そう修行です。
で、この「輪廻」、六道を断ち切るために「悟り」を開き六度の外(と言っていいのかな)涅槃に入る。
初期の仏教ではそのために出家し修行していました。
そして「大乗」の考えが始まると個人の悟りから大衆の救済へ。
「徳を積む」という言葉があります。
このおかげで仏教は発展しました。
「寄付」です、多額の寄付が流れ込んだのです。
たぶん、個人の「悟り」だけでは今、仏教はなかったでしょう。
で、このキーとなるが「因果律」です。
原因があるから結果がある
輪廻は旨い手といいましたが、まさにこれ。
善人が苦労していたら、それは過去生に。
悪人が繁栄しているのも過去生。
先の「寄付」もそうです、これで少々の悪人(?)も徳を積むことができます。
今の日本人はこの因果律に縛られているように私には見えます。
だから、日本でのキリスト教人口は約1パーセント。
では、キリスト教には因果律は?
それどころかキリスト教には
「予定説」
なるものがあります。
ひらたくいえば、よく映画やテレビで
「私は運命を信じます」
ってやつですが。
これ、因果律に縛られた日本人にはかなり難しい考えです。