食欲をそそるガーリックの香りと、オニオンスープの暖かい湯気があっけにとられている彼女の関心を大いにひいた。
「出ました!アンドレの十八番、オニオングラタンスープ!」
「もうね、よっぽど通わないとこれ食べられないんだよ。マドモアゼルは運がいい。」
「ほ~ら、ほら。熱いうちに食べてみなよ、金髪の美しい人。」
うわ~・・・。もうギャラリーがうるさいのなんのって。
「ちょっと‼男性諸君‼バー・ロマネスクはそこそこ上品な店なんだよ。少し黙って。」いつも穏やかなアンドレが珍しくジロリ、と男性客を睨むと、さすがに騒ぎは収まった。
まあ、今のバカ騒ぎの間に、オーブントースターがチン!となって、カスクートを少しあぶったやつが美味しそうに完成した。まさにベスト・タイミング。
「あの、これは・・・?私は美味しいカクテルをって頼んだんだけど?」
内心「美味しそう・・・。」って思ってるのに、強気な美しいサファイアブルーの瞳はアンドレをにらんだ。
でも、彼女は少しずつ思い出していた。
自分がすごく腹ペコだったという事を。
だってつまらない男達が纏わりついて、不愉快でお酒しか飲んでなかった。
それに引き換えこの人。何だか静かに笑っているうちにあっという間に目の前に料理。
それもすごっくいい匂い。
「カクテルはおつくりします。でも今の貴女には、まず心から暖まるスープと料理が最優先。
さあ、冷めないうちに食べて。俺の料理食べたら、とっておきのカクテルを。」
そう言うとアンドレは、茶目っ気たっぷりに彼女にウインクをした。
この人のウインクは…そう、マジックかしら?
彼女はホット・カスクートを、添えてあったナイフでザクザクと切り、一切れをハフッと口に入れた。
香ばしいパンの香りにハムの心地よい脂っこさと瑞々しい野菜が引き立て合って、タルタルソースが上手くフルメンバーを取り持っている。一口頬張るとたくさんのデリシャスが体全体に染みわたるほどに美味しい。
やっぱり私、お腹空いていたのね。「すっごく、美味しいわ。」
ドヤ顔で笑うバーテンダー君がすごく楽しそうなので、負けず嫌いの彼女は「お昼、抜いちゃってたものだから!」と強がりを言いつつ、今度はオニオングラタンスープにとりかかった。
ほわり、と熱い湯気と共に、オニオンの甘みを含んだ香りが鼻先に優しい湿り気をくれた。
フーフーと冷ましながら、スープを一口。
暖かい!美味しい!
それに表面にプカリと浮いている薄切りのフランスパンもスープをたっぷりと吸っていて
口の中にとても美味しい海をつくってくれてるみたいだわ。
なにかしら。こんなシンプルな料理で私はこんなに心かき乱されてる。
まずはカクテルを,って請うていた彼女は、とりつかれた様に食事に専念した。
食べている間彼は、他のお客さんのカクテルを作ったり、軽い雑談を交わして、お腹空いてるお客さんに軽食を作ったりと、忙しくしていた。
でも、彼の気遣いを知ったのは、彼女がきれいに食事を終えてから。
「美味しかった?」と悪戯が大成功した子供みたいな笑い方をする彼。
「食事中、目の前にいたらいやだろうから、あっちこっち行ってたんだ。」
「すごく…美味しかっったわ。こんなに美味しいスープは初めて。」
「ええ?本当?あれ、缶詰のスープとか、スーパーの粉チーズとか使ってるから、君でも
簡単に作れるよ。でも気に入ってもらえて、凄く嬉しいな。」
なんだかおもしろい人だな。ほめてるんだから「缶詰・・・」なんてネタ晴らししなくてもいいのに。
でもそんな彼の抜け感と暖かさに彼女の冷え切っていた心はポカポカしてしまった。
「さて、と。マドモアゼル、カクテルをご所望ですよね。お待たせいたしました。」
大袈裟な彼の仕草は彼女を愉快に笑わせたけど・・・お腹が満足してしまっている。
「どうしようかしら。せっかくのカクテル、心から味わいたかったのにな。」
彼女はすまなさそうに言った。
この店に入ってきた時の、とげとげしさすら伝わってくるような冷たさはなりを潜め、代わりに
はにかむような笑顔は整いすぎている顔立ちに一滴の生クリームのようなまろやかさを加えている。
「明日は、いらっしゃるの?」と彼女はアンドレにたずねた。
「残念・・・僕の本業はシェフだから明日はいないんだ。毎週水曜日だけここでシェーカーを振っている雇われバーテンダーさ。」
「そうなんだ、残念だなあ・・・。」本当に…残念そうな彼女。
止まり木の隅っこでは、常連の男性客二人がグラスをカモフラージュにしながらわれらが
バーテンダーと突然入ってきた美人客の行方をチラチラと盗み見ていた。
彼等をギロリと横目で制しつつ、アンドレは彼女の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、水曜日に来ませんか?ここの席、空けておきますから。」
アンドレのその提案に、彼女は目を大きく見開いた。
「え?いいの?」
「いいのって・・・。お客様でしょ?その日はアルコール抜きで来てください。とっておきのカクテルをおつくりしますよ。ああ、その前に。」
「その前に、なに?」
アンドレは彼女に囁いた。
「僕はアンドレ・グランデイエ。お名前を教えてもらえます?」
「私の名・・・。男みたいな名前なの。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。」
「ではオスカル。来週の水曜日の夜。お待ちしています。」
バー・ロマネスクを出た時、オスカルの頬は桜色に火照ってしまっていた。
オスカルが帰っていった後の席は、ぽっかりと穴が開いたような空虚感が漂い、
アンドレは名残惜しそうにたった今彼女が開けて出て行ったドアを眺めていた。