「おや、もうこんな時間になっていたのか。」 ダグー大佐は衛兵隊本部の司令官室の机の上に置かれている妻のミニアチュールに話しかけた。「早いものだなあ。お前が神の御許に召されてから、もう1年になるのだなあ。」
ベルサイユ宮殿の庭園は、森のように広い。暗闇に広がる木々の中、カンテラを照らしながらアラン・ド・ソワソンは庭内を夜警している最中であった。というのも、いよいよ業務終了という時になって、今日の警らの相方であるフランソワが、茂みの中からガサゴソと音がする、というのだ。一足先にフランソワを帰らせ、自分が一人でざっと見回りしなおして、引き上げるつもりでいた。 その時だ、よく知った声と、シルエットを感じたのは。
「ダグー大佐・・・?」おい、ダグーのオッサンかよ、ああ、ただでさえ薄気味の悪い庭内なんだ。驚かさないでくれよ、まったく。
「夜遅くまでご苦労だな、アラン。どうだ?一つ甘い物でも。」大佐がアランに差し出したものは、いくつかの愛らしいボンボンの包みだった。ダグーのオッサン・・・どうしたんだ!!いつも渋めで決めている(どっちかってーと、枯れてる・・・かな?)あんたがボンボンですかあ?
「いつも渋めのおやじが、ボンボン?って顔をしとるなあ。今日は妻の命日でな。あれの好物がボンボンだったんだ。今日ぐらいボンボンを買ってきて、あれのミニアチュール(肖像画)を見ながら食べようと思ったんだが・・甘い菓子だな、これは。」
ああ・・・そうだったんだ。大佐の奥方は昨年、患っていた胸の病が元で死んだんだっけ。 ダグーのオッサンよ、あんたも大切な人を永遠に亡くしてしまったんだな。そんな境遇の大佐にシンパシーを感じたアランは、ボンボンを口に放り込んだ。幼少の頃の記憶がデイアンヌの顔と共に蘇る。それはまだ、ソワソン家に、たまに菓子を買う余裕があった頃、綺麗な包み紙のボンボンを二人で、大事に大事に食べたんだったな。デイアンヌよ、このオッサンの奥方もそっちにいるそうだ。お前、寒くないか? ひもじくはないか? ま、そこはそんな心配は全くないところだとは思うがな。
「アラン、こんな機会だから、ぜひお前に聞いてみたいのだ。」ダグー大佐は庭内にしつらえてあるベンチに腰掛け、アランにも座るように促した。どうしたんだ、と思いつつ、アランもとなりに腰を掛けた。
「実は・・・隊長のお体のことだ。大丈夫なのか?」
「なんで・・・そんなこと、お聞きになるのですか?」アランは狼狽を隠せなかった。今も目に焼き付いているのは柱の陰に隠れてにぶい咳をしている隊長の青白い顔だった。丁度、三部会の頃だった。あの種のせきはパリのおれの汚いアパルトマンの周りでたくさんきいた。たいていはしばらく患ったあと、どこかへいなくなってしまうのが、常だったが。でも、よりにもよって、俺達の隊長が、か?アランは目の前から、光がすーっと消えていくような錯覚に陥った。
「去年、私の妻は胸の病が悪化して亡くなったのだが。」ダグー大佐が話し始めた。「亡くなる数か月前の妻の顔は本当にぬけるように白く、美しくさえあった。最近の隊長のお顔を見ていると、その頃の妻の顔と重なるんだよ。面立ちは全く似ていないんだがね。」
アンドレ、アンドレ、お前、目の具合が悪いにせよ、何やっているんだよ!ダグーのオッサンにここまで気づかれているんだぜ?お前がついていながら、何してるんだバカ野郎。
「私とて、隊長を失うのは辛いんだ。あの方が隊長として赴任して来られてから、衛兵隊の中の空気は本当に変わった。お前たちの面構えも、本当に変わったよ、いい意味でな。」
「じゃあ、じゃあ、隊長は…大佐?」
「でもな、そんな隊長であるからこそ、お元気であってほしいのだ。そうだろう?アラン。私は今、迷っているんだよ。隊長のお体を考えて、ご退役をお勧めするべきかどうか、を。」
アランは呆然とした。隊長が?俺達の前から姿を消すだって? 衛兵隊は?俺は?どうしたらいいんだよ。
アランの口が勝手に動いた。「隊長のことは、俺達がフォローします。体力だけは馬並みが取り柄の俺達だ。無理はさせねえ。それにアンドレの野郎がいるじゃないですか。だから・・・。」
「そのアンドレだかね。」大佐の声が珍しく冷たさを帯びた。「彼の目は見えているのかね?最初から、左目が見えないという事だけでも上層部の方は随分と難色をしめしておったのだが。もし、全盲となれば、軍はやめてもらうしかないんだ。軍隊が甘いものではないことは、お前がよく知っているはずだ、アラン。」
ぐうの音もでなかった。数か月前、完全に光を失ったことを俺に悟られたアンドレは俺に初めて涙を見せた。こんな大変な時に大切な人を守れないもどかしさ。最愛の女の姿を見ることができない辛さを、キラキラする涙の雫にかえてヤツは俺に訴えた。情けないことに、俺まで、もらい泣きしちまった・・・フン。だが、今はそんなことは言っていられねえ。俺はダチを売る様な安物の男じゃねえぞ。なんとか、このオッサンを言いくるめないとな。
神よ、我に力をお与えください。
ダグー大佐は、本来とても心優しい、部下思いの人物である。たった今、アンドレの事で、冷徹な処遇を検討していることなど、彼にとっては、大変なエネルギーを消費することに他ならなかった。思わず、持っていたボンボンを一つ口にした。カリリ・・・口の中で咀嚼され、リキュールが大佐の喉を通過した頃、アランはおもむろに口を開いた。
「ダグー大佐。あんた、アンドレの何を見ているのか知りませんがね・・・あいつの右目はしっかりと見えていますぜ。確かに左目はいっちまっていますがね。多少あんたが変だと思うのはな、視野が狭い分、バランスが崩れることがあるんだろうさ。それにな、大佐。」
よ~し!!調子出てきたぞ、俺。
「衛兵隊B中隊のチームワークを見くびってもらっては困るね。誰かが困っていれば、他の奴が必ず助ける。隊長の教育の賜物なんだ。アンドレは辞めさせねえ。あいつのためにも、俺達のためにも。そして何よりも隊長のためにも、だ。」
言い切った、言い切ったぞお、褒めてくれよな、アンドレ。
しばしの沈黙があった。それから、ダグー大佐は、大柄なアランの背中をポン、と叩いた。「悪かった。許してくれ、アラン。私の勘違いだったようだな。アンドレには内緒にな、ははは。」そして、「勤務の邪魔をして、すまなかったね。」と労いの言葉と共に、くるりと背を向けて、大佐は司令官室に戻っていった。
その背中にアランは敬礼を返す。感謝をこめて。
「ありがとうございます。ダグー大佐」
空に輝く星の数々が、アランの優しい嘘を笑いながら、受けとめてくれているかのようだった。
司令官室に戻ったダグー大佐は一人、ため息をついた。でもそのため息は、どこか、安堵感を含んでいる。
「アラン、わしがアンドレの目の事に気づいていないわけがなかろう。私はお前たちの決意を確かめたかったんだ。安心した・・・と言うべきかな?」ニヤニヤと笑いながら、今日、何個目かのボンボンを口にする。カリリ・・・・。
「隊長、正直申し上げて、貴女がこちらへ赴任されてきた時、大貴族のお嬢さまにはつとまるまい、となかば呆れておりました。ここの連中はいずれもルールを守らない、粗野な連中ばかりでしたから。でも貴女は違っていた。真正面から、連中と向き合い、決して逃げようとなさらなかった。痛みも分け合おうと、必死だった。並みの男だって、音を上げますよ。その細いお体のどこにそのような力があるのだろうかと・・・しばらくはわかりませんでした。やっとわかったのですよ。あなたを包む、暖かな影の存在に…フフフ。
アンドレ・グランデイエ、君の目には、君が守っている隊長のお姿の変化は映っているだろうか。赴任された当時、張りつめた弦のように、冷たい表情を浮かべていた、あの方は、花びらが少しずつ開くようにたおやかに変わっていかれたよ。最近のあの方は恥じらいながら、満開の桜のように、花開いている。こんなに枯れた老人から見ても、その変化はたとえようもなくお美しい。」
司令官室の窓から、空を見上げるダグー大佐。鬱蒼とした木立の間からは、星がまたたく。
「隊長、貴女のおられない衛兵隊がもはや考えられないのと同じくらいに、アンドレが傍らにいない貴女もまた、考えられないのですよ。このフランスがこの先どうなっていくのかは、わかりません。でも、貴女や、あなたが育ててくださった衛兵隊隊員達はやがて全国民が幸せに暮らしていけるフランスを築く方向に、彼らを導いていってくれることでしょう。それは、我々貴族も同様に希求するものです。」ダグー大佐は、柔らかな笑みを浮かべつつ、机の上のミニアチュールに視線を移した。「今日はお前のことを思い出しながら一晩すごそうと思ったのだが、もう一組の若い恋人達に思いを馳せてしまってな。すまなかったね。これから朝まで数時間、仮眠をとって、夢の中でお前と話でもするかな。ちゃんと出てきておくれよ、夢の中にな?」大佐は一人つぶやき、仮眠室へと入っていった。
窓の外の木々がさやさやとうなづくように、風になびいている。そんな夜も、もうすぐ明ける。
FIN
ベルばらの魅力は何といってもモブキャラの素晴らしさではないでしょうか。
アランもダグー大佐も人として暖かさとたおやかさを持っていてとても好きです。