秋が来て、秋が去り。
冬が来て、冬が去り。
水温む春がこそり、こそりと草木の芽を起こし始めようとしている。
夜の闇も、その奥になにかしら明るい春色を感じさせてくれるほの明るい感じがするのは、
俺の心を見透かされているからかな。
今日の午後、ダグー大佐がいないほんの数分の間にオスカルは俺に耳打ちした。、
「晩餐の後、少し早めに部屋へ来てくれ。」
何か用事が有るわけじゃない、ただ一緒にいたいんだ、隣に座っていてほしい、一緒に夜の時間が過ぎるのを他愛ない話をしながら過ごしたいんだ、とはにかみながら、彼女は俺に言った。
嬉しかった。俺の瞳はもう、朧げにしか彼女の姿をうつしてはくれないけれど、俺にはわかる。
オスカルの声、息遣いだけで、今お前がどんな顔をして俺に話しかけてくれているのかを。
午後8時。旦那様、奥様とオスカルの晩餐が終わった。
「オスカル様、またこんなに残されて。せめてスープだけでも平らげて下されば。」
片付けをしながら、ローザが心配そうに独り言を言っているのを俺は聞いていた。しまった、気が付かなかった・・・というよりも、よく見えないからだが。オスカル、お前ハードワークをこなしているのに、食べなければもたないぞ。
片付けが終わった後、俺は裏の冷たい井戸水で軽く体を拭いた。控えめにハーブの香りのコロンをつけ、新しいシャツに着替えてオスカルの部屋へ向かった。手には、パリ巡回中にこっそり買い求めたチョコレートボンボンとちっちゃな陶器の薔薇を持って。
せめてお前に、気持ちだけでも華やいでほしい。
その時、「アンドレ」とおばあちゃんの声に呼び止められた。
しまった・・・早く行こうとうっかりおばあちゃんの部屋の前を通ってしまったんだ。
「お前、これからオスカル様のお部屋へ行くのかい?」かすかなコロンの香りにきづいたんだろうな、
おばあちゃんの声が少しこわばっている。
「うん。オスカルは今、心身ともに疲れ切っているんだ。俺なんかも頼りにされてる。おばあちゃんは
色々文句があるだろうけど・・・。」
「ちょっと、一緒においで。」おばあちゃんは俺の言葉を遮り、スタスタと前を足早に歩きだした。
「厨房だよ、早くついてきな。」
え?厨房?
俺はもう、1,2発お玉で殴られるくらいの覚悟を決めて、ばあちゃんの後ろをついていった。
厨房の扉を開けると、俺の鋭くなった嗅覚がバターとナッツの懐かしい香りを嬉し気にとらえた。
「これを、持っておいき。」おばあちゃんが差し出したのは、あの小さい頃に食べたクッキーだった。
リモージュの柔らかな色彩の菓子鉢に、こんもりと盛られているのは、
俺用のころっとした素朴なクッキーと、オスカル用の綺麗にかたどられたクッキーが仲良く混ざり合って
いた、あの時のお菓子。
「オスカル様、今夜もろくに召し上がらなくてね。」ばあちゃんは俺に背中を向けたまま、つぶやいた。
「だから、これを差し上げておくれ。そしてお前も…お前も一緒におあがり。このバカ息子が。」
俺は、おばあちゃんの心遣いに涙が溢れた。ありがとう。
何年振りだろう、おばあちゃんの小さくて丸みのある背中を後ろから抱きしめた。
「遅かったんだな。早く来いって言ったのに。」
オスカルの部屋の重い扉をノックすると、オスカルが心細そうな、それでいてちょっぴり機嫌の悪そうな振りをして、俺の首にそっと両手を回す。
俺はクッキーが盛られたリモージュの鉢を片手で持ったまま、もう片方の手を彼女の後頭部の金髪に埋め、唇を重ねた。
こんな滑稽な姿の、俺の口づけに彼女が気づいたのは数分経ってからだった。
「あ、アンドレ。それって・・・。」
「そうさ、懐かしいだろう?」俺は深緑色のオニキスのミニテーブルに、リモージュの鉢をおいた。
テーブルの前のラブチェアーに腰を掛けたオスカルは、嬉しい、と言うよりも少し動揺した風な
表情をしている。そうっと隣に腰掛けた俺は、ワインをグラスに注ぐと、オスカルにたずねた。
「どうしたの?お前好きだっただろ、この焼き菓子。最近はお前が食べてくれないっておばあちゃんが
寂しそうだった。どうだろう、年寄りを喜ばせてやってくれないかな?」
「大好きだよ、今でも。お前とよく食べたこと、よく覚えてるし。」オスカルは俯いた。そして、
まつげがゆらゆら揺れて、涙がぽたりと落ちた時、俺はびっくりした。
「オスカル!どうしたんだ?」
「小さい頃お前と分け合って食べた楽しい想い出があって。でもその後、私はフェルゼンを愛した。
あの、私が初めてドレスを着て舞踏会へ行った夜はフェルゼンに会えるからだった。その日私の
準備をしてくれていたばあやはこのお菓子を焼いてくれたんだ。」
俺は彼女の話を黙って聞いていた。
「お前との清らかで明るかった記憶の中のお菓子がフェルゼンと踊った時の記憶に重なって。
その後、お前への気持ちが高まっていくにつれて、このクッキーを見るのが少し辛くなってしまったんだ。
本当は、お前に言いたくなかった。」
パクリ、と俺は、クッキーを口に放り込んだ。オスカルがびっくりしたような表情をするのを見て、
また、パクリ。
「あ、アンドレ?」
「食べちゃおうよ。お前の迷いも悲しみも、俺が一緒に腹におさめてやる。」
俺は、オスカルに片目をつぶって見せた。
「ばあちゃんがね、『オスカル様の部屋で、一緒におあがり。』ってさ。あの人なりに俺のおまえへの
気持ちを見守ってくれているらしい。俺はすごく、嬉しいよ。」
美味そうに3つ目のクッキーを口に入れようとした俺のクッキーをオスカルはそっと指先でつまむと
自分の口に運んだ。
「美味しい・・・。美味しいよ、アンドレ。」クスンクスんと泣き笑いの表情で、一つ、また一つとクッキーを食べる彼女の頭を俺はそうっと自分の肩に抱き寄せた。
オスカルは瞳を閉じて、言った。
「このクッキー、時間をかけてゆっくり食べよう、今夜一晩かけて。」
え・・・?
じゃあ、俺は持ってきた陶器の薔薇を・・・明日の朝渡そうかな。
俺達は今夜2回目の口づけを交わした。
おしまい