大きな歴史のうねりが海ならば、今のフランスは、うねりに飲み込まれそうな船のようだ。
そして、俺達もまた、身の回りの状況が随分と変わってしまった・・・と言っても、配偶者ができたとか
のプライベートな事ではない。
オスカルは自ら、近衛隊を去り、その多くが貧しい平民から構成されるフランス衛兵隊へと転属していた。俺は、旦那様の命を受け、衛兵隊へ入隊した。今までお屋敷の仕事しかしたことのない俺が、
軍隊生活をすることは戸惑いもあったけど、徐々に徐々に隊員仲間とも打ち解けていった。
もっとも、最初の頃はオスカルと俺への風当たりは相当なもので、彼女を守ろうとする分、軍服に隠れた俺の体の部分には随分と打撲の跡が絶えなかったものだが。
今はなんとか他の連中よりも年を食ってる分、兄貴的な存在で何かと相談にのったり、親兄弟、恋人への手紙を書く時の手伝いなどすることもある。
そうやって、オスカルと共に忙しい毎日を送っている日々の中で、季節は夏から秋へと移っていこうとしていた。
昨夜、衛兵隊からお屋敷へ戻って来ていた俺は朝から屋敷の仕事に追われていた。ガタイのいい俺は、やたら重宝がられこき使われる。究極のダブルワーク、といったところかな。
夜遅く、あんまり疲れたので眠れなくなってしまった俺は酒でも一杯ひっかけて寝てやろうと思い、
厨房へ向かった。
すると、厨房からは一筋の光が漏れていた。
「誰?」
「あ、ああ。お前かい、アンドレ。」びっくりした。おばあちゃんがめずらしくこんな時間まで起きている。
おばあちゃんの前には、コケモモの酒がグラスに注がれておいてある。
おばあちゃんがもう少し若い頃・・・・俺がお屋敷に引き取っていただいたころ・・・・よくこうやって飲んでいた。お気に入りの菫の透かし模様が入ったグラスで。そう言えば、ごくたまにだけど、旦那様がおばあちゃんと一緒にここで飲んでいたことがあったっけ。
厳しさの中に、優しさと気さくさが潜んでいるところ、本当にオスカルは旦那様にそっくりだと思う。
「おばあちゃん、俺にも一杯くれる?」
おばあちゃんはニコニコしながら、俺のゴブレットにコケモモの酒をついでくれた。
「メルシ。」
「毎日お疲れさまだね、アンドレ。よかったらこれ、食べないかい?」おばあちゃんはそう言うと、
マドレーヌを差し出した。俺はそれを、一口食べた。
「おばあちゃん大丈夫?こんなに夜遅くまで起きていて。」
「あ?ああ大丈夫だよ。少し寝付けなくてね。」いつになく元気のないおばあちゃんの様子が心配で、
俺はわざと明るく話しかけた。
「あのさ、マドレーヌもおばあちゃんの十八番だけど、俺、おばあちゃんの作ってくれたクッキーが懐かしいな。俺にとってはおふくろの味でもあるし。覚えてる?」
「忘れるわけがないじゃないか。オスカル様ったら、『アンドレと同じクッキーでないと食べない!』っておっしゃったことがあったね。本当にお優しい。」
「ああ、覚えてた?俺もよく覚えてる。それにとっても嬉しかったんだ。」
「オスカル様もとってもお好きなお菓子だったけど、あの舞踏会の時に召し上がっていただいたのが
最後なんだよ。あれからお勧めしても、召し上がらなくなって。」
「そうなんだ・・・・。」
「心配なんだよ、私は。以前よりもお痩せになったし、年寄りの私から見ても、顔色が優れなくて。」
「今、とっても忙しいからね。世の中がごうごうと音を立ててうごめいているような時代だから、衛兵隊も休まる時がないよ。でも、俺がもっと注意してオスカルに少しでも休んでもらうようにするから心配しないで。」
すると、今まで静かに話を聞いていたおばあちゃんが、俺を厳しい眼差しで見た。
「アンドレ。お前わかっているだろうけど、くれぐれもオスカル様はお前の御主人様だからね。それ以下でもそれ以上でもないんだ。わかっているね?」
「おばあちゃん・・・・!」
「お前の、切ない気持ちもわかる。でも神様に背くような過ちはお願いだからしないでおくれ。」
本当に・・・20代の頃に無理やりにでもアンドレに嫁をさがしていればよかった、とマロンは思っていた。
そうすればアンドレもオスカル様も、今とは違う穏やかな人生を送っていたのかもしれない。
そのうえ、最近のオスカルが、時折自分の孫に切ない眼差しを送っていることに気づいた時、マロンは恐れた。
長く人生を送ってきてこれだけはわかる。
恋、が心に芽生えた時、その炎は他人が消せるものじゃないってことを。
オスカルがアンドレの名を呼ぶ時のかすかな恥じらいが何をあらわしているか。
しばらく・・・ほんの数分間だったと思うが・・・俺とおばあちゃんは睨み合っていたような気がする。
そして、口を開いたのは俺のほうだった。
「おばあちゃんの気持ちも、言いたいこともわかってる。でも、人の心はどうにもならないんだ。」
「アンドレ、お前!」
「おやすみ、おばあちゃん。」
背中に突き刺さる刃の様なおばあちゃんの視線を感じながら、俺は厨房を出た。
ムリだよ、おばあちゃん。
おばあちゃんがあの日、俺を天使に引き合わせたんだぜ?
それに感じるんだ。自惚れだと思うなら、笑ってくれ。恋愛感情ではないのかもしれないけど、
オスカルは最近、俺に切ない眼差しを向けるんだ。
俺は、そんなあいつを、心の中の特別な箱の中から押し出すことなんてできやしない。
その時は、
俺が、俺の生を終える時だと思う。
自分の部屋へ戻ると、俺はシーツがしわくちゃになったベッドにシャツのまま沈み込んだ。