〇天来書院の書物について

 

甲骨文のマニュアル本としておすすめなのが、天来書院テキストシリーズの中国古代の書の『甲骨文』である。

 

お勧めする理由としては不適切かもしれないが、薄くて軽い。

 

ちょっとした時間があるときに開くのも丁度いいし、また、書道教室に持参するのも重くないから疲れない。軽さ、お手軽さは実は学びに丁度いい。そして、傷が多くて見難い印象の甲骨文が、ここでは第一期の甲骨文のみを厳選しているため、比較的文字は見やすく、それに元、國學院大學の佐野光一先生がなぞり書きした模書が添付されており、至れり尽くせりとなっている。

 

佐野先生は、二〇〇一年テキストシリーズ『甲骨文』出版の後に、二〇一一年に同じく天来書院から『甲骨文字を書く』という本も出版されている。

 

ここでは、後者の本を眺めて記述したい。

 

㈡筆順についてでは、甲骨上に書かれた朱や墨の文字に触れた後、「刻したものを細かく見ると、その用刀の順序は必ずしも書いた文字の筆順とは一致しない」とし、甲骨文の縦画だけを先に彫った例を挙げるともに、下から上へ刻している例を紹介している。(一一頁)

 

また、この本の冒頭には、先人による甲骨文の書作が並び、書作思考の参考となるためありがたい。楊仲子(ようちゅうし)という音楽家は、甲骨文で印を刻した最初の人と言われているそうである。ただ、「十」字についての字説の中で、「縦横の長さの差と筆順により、十と七とを区別した」(二七頁)とあるのは、佐野先生は甲骨文の「七」は中央にある長い縦画から書かず、先秦の文字でも横画から書いたと理解していたのだろうか。

 

また、「二羌」を二匹の羌(三一頁)と記述。誤植であろう。

 

また、「令」字は「人を集め命令する意を表す」とあるが、これも誤植なのであろうか。(「命」も「令」も、王などから命令を受ける人の姿であり、命令する意味ではない)

 

字形については、五〇頁の「長」字は、傷を字画としたのか、長いマントを羽織っている人のような形となっている。書道愛好者がこの字形を書作に生かしたら、みな、「長」字はマント付きで、飛びそうな気がする。

 

続いて、次の佐野先生の文を考えてみたい。

 

「鳥」「馬」など各字ごと様々に表現しているものもある。このように、定型化していないのは、なお発達途中の段階の状況だという考えの学者もあるが、はたしてそうだろうか。(七頁)

象形文字が定型化されていないと判断されている現状を記し、甲骨文には指示文字や会意文字、形声文字まで揃っていることを記して、発達段階の文字ではないということを説明なさっている。

 

ただ、ここで佐野先生が挙げた、各字ごと様々に表現しているとはどのような部分を指しているのであろうか。「鳥」字であれば、左側を向いたとりの象形文字であるから、羽と足を記した形であるため、せいぜい羽や足の数の増減に過ぎず、「馬」字も大きな顔を目で表現した形と、その目にプラスして開けた口を表現した形との2種類に分けられるぐらいである。これを様々な表現と言えるのであろうか。ここでは、茫洋とした不明なさまを取り払うために、明確に分類したい。

 

『甲骨文字を書く』の冒頭にある先人の書作の、

 

甲骨文字を専修したという清代生まれの学者の書作の、例えば「象」字は誤っている。

 

甲骨文では目を基本として動物を記したため、「象」字も同様、目の一部を鼻として長く作り、鼻の長い象を表す。一か所だけ長いので、すぐに「象」字と分かるのであるが、この先生の筆文字では、二か所が長くなっており、物を挟むトングのような形で、恐ろしい。甲骨文の研究者であるから確実に字形にも慣れているはずなのに、どうにも残念でならない。ただし、この大先生は、例えば跪く姿は曲線に作り、字形に忠実というより、創作性重視、自己表現をしたいという気持ちがあったようにも見え、字形変化を狙ったという可能性もある。

 

しかし、字画の変化と、字画の誤りとはまるで異なるのである。

 

ひらがなの「い」を筆に任せた創作表現と言って、右側を思い切り伸ばして良いのであろうか。

 

古代に文字を作った人は、他の動物たちと同様、目の形を主として、象の特徴である長い鼻を長く見せ、腹をでっぷりさせ、毛の生えた尾を「象」字に入れ込み、ゆったり歩いて鼻を自在に動かす象を想起させる文字に仕上げた。この大学者は、尾にある毛も書いていない。甲骨文の書写は、契刻した痩硬刀契(そうこうとうけい)の特徴を毛筆でよく表し得ることや、結構も繁簡よくかない安定していることが主なのではない。

 

まずは丁寧に文字を理解したい。


これまでは「各字ごと様々に表現」されたという印象であったものを、字の特徴、その基本形をしっかり理解したいと思う。佐野先生はこの大学者の釈文に「常日頃多くの甲骨文を考釈し、摹写していたため、その形体や筆法に習熟した。」と記述されており、痛々しい気持ちになった。

 

以上、読後感なり。