
捕虜になった羌が連行されるのを宗廟の門で待つことを占っている内容の甲骨文である。
ここでの甲骨文資料のねらいは、「屰(逆)」の文字が、むかえるという意味であったことを実感していただくものなのである。
訳は、
王は宗廟の門において、捕獲した羌人を出迎えようか。である。
資料を作りながら、「羌」が、本当に辮髪なのか、分からなくなってきた。
捕まえられた状態の者を示しているのではなかろうか。
この甲骨文は、まずは宗廟に羌を供えるというものなので、「宗」から。
「宗」甲骨文1の例示のみ添付する

◎宗の字源 建物の「宀」と祭卓の象形「示」を合わせた形で、祖先祭祀を行う宗廟の意味。甲骨文1が頻出する字形で、祭卓を横から見た形。2は祭卓に供え物を置いた形(「示」の上部の短い横画が供え物)で、3は小点を含む形で、机に注がれた酒の水滴か、祭肉からしたたる血液を示している。西周以降、3の形が継承される。東周代の竹簡では、屋根の形だけを記した字形もある。意味としては、甲骨文では宗廟施設。西周金文では宗族の意味で、宗室(一族が、その宗主とする家。宗家。本家)、同じ祖先を祀る血縁集団のこと。本家を「大宗(たいそう)」と呼ぶものあり。仏教が流入後、血縁的な繋がりではなく、思想的なつながりを示すようになる。
「屰(逆)」甲骨文1の例示のみ添付する。

◎「屰(逆)」の字源 「屰」は漢音はゲキ。「大」を上下反転形(逆さま)にした形で、「彳」と「止」(「辶(辵)」)を合わせた形で、道を反対向きに進んでくる姿を表す。逆向きの形から、ぎゃくの意味。向こうから来る人の形から、むかえるの意味。また、道理に反する意味から、さからうの意味となる。最多の甲骨文1を西周金文は継承した。
羌 甲骨文1から4まで添付する

◎羌の字源 上部は羊の角の形、下部は人の側身形であり、殷代、北西方面の異文化地域にいた人々を指す。後頭部に辮髪(頭髪の一部を剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三つ編みにする髪型)を加えた形であることから、辮髪は北方の遊牧民に多く見られる慣習であるため、羊飼いの遊牧民であったという説がある。おそらく、羊を飼う人を表した字形であろう。
甲骨文1が頻出する字形で、首のところに何かを下げたような形で、上から四番目は首に紐が括られたような字形である。2は、辮髪であろうか、捕らえられ、紐で括られたようにも見える。3は羊の角の形と人の側身形を合わせた形。4は、下部に「土」の省略形であろうか、何かを加えた形である。
落合氏に拠ると、甲骨文には羌を捕らえる占卜が多く見られ、強大な敵対勢力に比べて、羌人は容易に捕獲されている。殷王朝側が積極的に捕獲する場合や地方領主が捕らえる占卜がある。
殷代の奴隷は、戦争捕虜が供給源だったが、戦争捕虜として、王や貴族の家内奴隷とされた。ただし、殷代の奴隷は、農作業や工業生産に強制労働させたのではなく、祭祀の犠牲に供されたのである。
わざわざ捕獲した奴隷を祭祀犠牲に供する理由はなんであったか。
人肉食の習慣はないため、食肉として分配することは不可能であるため、考えられる理由は、当時、王朝の周辺地域には敵対勢力が存在したことから、戦争捕虜である奴隷の羌人を、臣下や敵を含む人々の前で大々的に殺すことは、為政者である殷王の軍事力を誇示し、王の権威を高めることに繋がったから。祭祀儀礼で捕らえた敵対勢力を生贄として捧げることで、他の敵対勢力に、殷王朝の軍事力を見せつけるという演出効果を狙ったのであった。
甲骨文には農奴の記述はなく、殷代には農作業や工業生産に強制労働させるという方法はまだ行なっていないため、余剰の捕虜は犠牲以外に使い道がなかった。
大量に戦争捕虜を獲得した場合、不要になった余剰の奴隷を祭祀犠牲にしたという。そのことを物語るように、殷墟遺跡からは、伐の儀礼に供されたと思われる、頭と胴体が切り離された、三千人を超える犠牲の遺体が発見されている。

このたった6文字の甲骨文は、捕虜になった羌が連行されるのを宗廟の門で迎え待つことを占っている内容であった。おそらく、宗廟での祭祀のために、この羌人は犠牲になったのであろう。
殷代にタイムスリップして、もしも羌人になったら、あっという間に殷人に犠牲にされるのである。
悲惨な羌であった。

以上、犠牲の羌を探った。
古代文字書家の安東麟でした。
