突然ですが、甲骨文の問題です。

どちらが背びれ?

 

 

 

 

 

 

 

 

では、ここで占いのために彫られた甲骨文をお見せしましょう~

 

ジャジャ~ん!

 

 

 

分かりましたか?

 

 

分からない?

 

では、白黒反転させて見やすくした甲骨文「魚」をどうぞ

鱗の表現が豊富で、鱗を横や斜めに作るのが「魚」字です。

 

 

はい、続いてどうぞ

 

 

 

分かりましたか?

 

 

 

 

 

分からないですか・・・。

 

 

 

 

では、

甲骨文と同じ、殷時代に作器された族徽(ぞくき)が答えを教えてくれます。

 

族徽を見てみましょう~

 

はい、どうですか。

 

 

分かりましたね~。素晴らしい。

 

「人」や「儿」の文字や、動物関連の造字方法とまったく同じなのですよ。

 

「魚」はさかなの象形文字です。

 

甲骨文と同時代に作器された族徽では、左上にくちを作っており、

 

「魚」字は左の側面を描いた形がスタンダードであったことが分かるのです。

 

甲骨文について、白川静先生の、新訂『字統』冒頭に「魚を上から見た形」とあるのですが、上からではなく、横から見た姿をもとにしています。

 

「魚」は、頭を上にし、右側に背びれ、左側に胸びれ、下部に尾びれが記された形で、体に鱗が表現されているのが、甲骨文の「魚」なのでした。

 

 

青銅器に鋳込(いこ)まれた金文(きんぶん)では、口の表現が左上。

 

 

 

 

ここでは象形文字をご紹介したけれど、次は、甲骨文にある会意文字や形声文字を御紹介しようと思っています。

 

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

捕虜になった羌が連行されるのを宗廟の門で待つことを占っている内容の甲骨文である。

 

 

ここでの甲骨文資料のねらいは、「屰(逆)」の文字が、むかえるという意味であったことを実感していただくものなのである。

 

訳は、

王は宗廟の門において、捕獲した羌人を出迎えようか。である。

 

 

 

資料を作りながら、「羌」が、本当に辮髪なのか、分からなくなってきた。

捕まえられた状態の者を示しているのではなかろうか。

 

この甲骨文は、まずは宗廟に羌を供えるというものなので、「宗」から。

 

 

 

「宗」甲骨文1の例示のみ添付する

 

 

 

◎宗の字源 建物の「宀」と祭卓の象形「示」を合わせた形で、祖先祭祀を行う宗廟の意味。甲骨文1が頻出する字形で、祭卓を横から見た形。2は祭卓に供え物を置いた形(「示」の上部の短い横画が供え物)で、3は小点を含む形で、机に注がれた酒の水滴か、祭肉からしたたる血液を示している。西周以降、3の形が継承される。東周代の竹簡では、屋根の形だけを記した字形もある。意味としては、甲骨文では宗廟施設。西周金文では宗族の意味で、宗室(一族が、その宗主とする家。宗家。本家)、同じ祖先を祀る血縁集団のこと。本家を「大宗(たいそう)」と呼ぶものあり。仏教が流入後、血縁的な繋がりではなく、思想的なつながりを示すようになる。

 

 

 

「屰(逆)」甲骨文1の例示のみ添付する。

 

◎「屰(逆)」の字源 「屰」は漢音はゲキ。「大」を上下反転形(逆さま)にした形で、「彳」と「止」(「辶(辵)」)を合わせた形で、道を反対向きに進んでくる姿を表す。逆向きの形から、ぎゃくの意味。向こうから来る人の形から、むかえるの意味。また、道理に反する意味から、さからうの意味となる。最多の甲骨文1を西周金文は継承した。

 

 

 

羌 甲骨文1から4まで添付する

 

 

 

◎羌の字源 上部は羊の角の形、下部は人の側身形であり、殷代、北西方面の異文化地域にいた人々を指す。後頭部に辮髪(べんぱつ)(頭髪の一部を剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三つ編みにする髪型)を加えた形であることから、辮髪は北方の遊牧民に多く見られる慣習であるため、羊飼いの遊牧民であったという説がある。おそらく、羊を飼う人を表した字形であろう。

甲骨文1が頻出する字形で、首のところに何かを下げたような形で、上から四番目は首に紐が括られたような字形である。2は、辮髪であろうか、捕らえられ、紐で括られたようにも見える。3は羊の角の形と人の側身形を合わせた形。4は、下部に「土」の省略形であろうか、何かを加えた形である。

 

落合氏に拠ると、甲骨文には羌を捕らえる占卜が多く見られ、強大な敵対勢力に比べて、羌人は容易に捕獲されている。殷王朝側が積極的に捕獲する場合や地方領主が捕らえる占卜がある。

 

殷代の奴隷は、戦争捕虜が供給源だったが、戦争捕虜として、王や貴族の家内奴隷とされた。ただし、殷代の奴隷は、農作業や工業生産に強制労働させたのではなく、祭祀の犠牲に供されたのである。

 

わざわざ捕獲した奴隷を祭祀犠牲に供する理由はなんであったか。

 

人肉食の習慣はないため、食肉として分配することは不可能であるため、考えられる理由は、当時、王朝の周辺地域には敵対勢力が存在したことから、戦争捕虜である奴隷の羌人を、臣下や敵を含む人々の前で大々的に殺すことは、為政者である殷王の軍事力を誇示し、王の権威を高めることに繋がったから。祭祀儀礼で捕らえた敵対勢力を生贄として捧げることで、他の敵対勢力に、殷王朝の軍事力を見せつけるという演出効果を狙ったのであった。

 

甲骨文には農奴の記述はなく、殷代には農作業や工業生産に強制労働させるという方法はまだ行なっていないため、余剰の捕虜は犠牲以外に使い道がなかった。

大量に戦争捕虜を獲得した場合、不要になった余剰の奴隷を祭祀犠牲にしたという。そのことを物語るように、殷墟遺跡からは、伐(ばつ)の儀礼に供されたと思われる、頭と胴体が切り離された、三千人を超える犠牲の遺体が発見されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

このたった6文字の甲骨文は、捕虜になった羌が連行されるのを宗廟の門で迎え待つことを占っている内容であった。おそらく、宗廟での祭祀のために、この羌人は犠牲になったのであろう。

 

 

 

 

 

 

殷代にタイムスリップして、もしも羌人になったら、あっという間に殷人に犠牲にされるのである。

 

悲惨な羌であった。

以上、犠牲の羌を探った。

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

◎「受(授)」と読んだ部分を、天来では「爲」として地図を爲(つく)ると読み、国学大師、小學堂同様。ここでは白川氏の『金文通釈』を参照して、夨王が散側に授くと読み、「受(授)」とした。

 

 

◎「豆」の地名と新宮と東廷

資料2の夨側の十五人の名として、豆人の丂(考(こう))の記述がある。この授受された田に関係する豆の地域に、宮殿が建てられていて、その東側に作られた中庭にて、この授受が行われたのであった。

 

◎「夨王」

伊藤氏は、周王の下にあった夨侯あるいは夨伯のことと記述。

伊藤道治『中国古代国家の支配構造』中央公論社一九八七年 

 

夨王については、佐藤氏の著書に、松井氏と谷氏の説を紹介する形で記述がある。

周王朝に服属する勢力の君長が王号を称した例として『散氏盤』を挙げ、散の邑と紛争をおこし、和解を行った夨の地の君主が「夨王」と王号でもって称されている。また、谷氏の説として、夨は殷代では周と同じような立場に置かれており、殷末に王号を称し、周と同盟しても、ともに殷王朝を打倒したというような事情があり、周王朝成立後も特別措置として、自領内での称号がみとめられたのではないかとする。

(佐藤信弥『周―理想化された古代王朝』天王の号一七〇頁 松井嘉徳『周王の称号 天・天子、あるいは天王』立命館大二〇一二年 谷秀樹『西周代天子考』立命館文学二〇〇八年)

 

 

時には服従し、封土制度に完全には組み込まれていなかったため、王権を宣言する古い慣習が継続された。Guo_Baidu百科事典

 

三輪氏によると、『散氏盤』に、夨を支配する夨王という者がおり、周王以外の領主の支配する土地にも虞や彔(麓)といった山林藪澤を管理する職が存在したことが分かると記述する。

三輪健介『西周王朝の財政』https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/

つまり、夨王は、周王朝に服属する勢力の領主であり、周王朝同様の官職によって、支配されていたのであった。

 

(平㔟氏は、この『散氏盤』は西周中期の穆王の時に作器されたもので、「夨王」とは、夨におわします王(穆王)の意味とする。平㔟隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国』中公新書)

 

 

 

これまで

 

『散氏盤』の最後の「夨王」の登場に誰なんだ・・・と思ってきたが、

周王朝に服属する勢力であることが知られた。

 

 

調べても、調べてもよく分からないことが多いけれど、

とりあえず、この夨王問題は、いったん解決した、自分の中では腑に落ちたと思った

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

 

 

 

『散氏盤』を丁寧に読み取り、これでやっと終了です。

 

ただ、いまだ町家カルチャー教室のS井さんの言葉を実行できていません。

 

町家のS井さんの言葉とは、

 

「この散氏盤には、北の文字がないのです。

 

だからこの境界線で

 

作っていく地図は東西南北の四角いものではなく、三角形でしょうね」

 

というもので、

 

今回、町家では、読みながらある程度の地図を作ってみようというテーマを掲げたのですが、

 

結局、地図の作製は、いまだにできていません。

 

 

 

次に添付する資料1、2とは散氏盤冒頭の境界を決めて、踏査しているという部分です。

散氏盤は5つに分けて読み取っていきました。

 

 

S井さんの言葉はあっていました。

 

ほんとうに北がありませんでした。

 

 

 

 

矢印を貼っていって考えたのですが、

 

ぐるっと一周して、もとに戻ることができなくなりました。

 

ということで、保留です。

保留は、熟成なので、捨て去ったということではありません。

 

 

さて、

 

 

 

散氏盤最後は、夨王が地図を渡すという場面となります。

 

 

 

 

 

◎地図

松井氏は、この『散氏盤』に記録されている文書は契約、誓約文書であり、現代の土地譲渡関係文書にも比肩しうる法的な記録文書。永久に残る青銅器の金文が記録文書としての性格を持ち、青銅器は記録媒体となり、朽ちることのない青銅礼器に鋳込まれた金文の記録は、永続性を獲得したのであったと記述する。

(『記憶される西周史』鳴り響く文字二三〇頁 松井嘉徳著 吉本道雅編 朋友書店二〇一九)

 

土地境界図が作成され、その授受が行われたというものであるが、地図は竹簡を束ねたものに書かれたのであろうか。それとも皮革であろうか。

ちなみに、戦国時代の中山国から出土した地図は、銅板。漢代の馬王堆漢墓から出土した地図は、絹地である。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、

 

 

 

散氏盤の「図」はこんな形です。

 

 

 

◎図の字源 

領域を表す四角形と都市を表す「啚」(城壁を表す四角形と倉庫の「㐭〔りん〕」)を合わせた形で、西周初期は、領土の意味。西周後期金文の『散氏盤』では地図の意味として使用されており、はかるの意味でも使用された。

 

 

 

 

地図の「図」は、青銅器の金文(きんぶん)では「圖」の形でした。

 

ですから、書道資料には、旧字体の圖と新字体の図を合わせて、

 

「圖(図)」としました。

 

 


終わったと書きましたが、

まだ筆文字資料が残っていました。

 

古代文字書家の安東麟(あんどうりん)でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは以前作った書道資料。

 

大𣪘(だいき)という名前で、大さんが作った穀物を入れる祭器である𣪘(き)に

 

鋳込まれている文。

 

 

金文は、一見、象形性がたっぷりで

 

なんだか、

 

可愛らしいから書いてみたいと思って、

 

いきなり書かない方が身のためである。

 

 

分からなすぎて、嫌いになる。

 

 

だから、

 

分かってから、書く方が絶対に良い。

 

だから、わたくしは、いつでも生徒さんのため、

 

生徒さんの資料のためと言いながら、

 

もちろん自分が明確に分かるために

 

一つずつ分解して、図解して読み取っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金文は、言うならば漢文なので、

 

疲れる。

 

 

だから、文を読みながら、ちょっと休憩がてら、

 

絵をみて、休憩しつつ、整理してもらう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内容が分かってから、

 

文字確認をしていくと、

 

すべてが自分のものになったような気がして、

 

生徒さんたちも、金文にすんなり入っていけるような雰囲気である。

 

 

 

 

 

書道資料を作る時には、

 

金文は、基礎研究の上に成り立っているため、

 

国内外の学者の説を取り入れる必要がある。読んで、資料を作ることがわたくしの使命だと思って、

今日も資料作りに邁進する。

 

 

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

 

朝から晩まで

 

 

紀元前1300年ごろから占いに使われた甲骨文(こうこつぶん)と

 

青銅器の金文(きんぶん)の文字について

 

考察を深めています。

 

 

 

漢字の成り立ちに魅了された時に、

 

 

甲骨文は

 

 

遠くのかなたで、まるで雲をつかむようなまるで見えない世界でした。

 

 

それが、

 

いまでは

 

いや、いまでもすぐに分からなくなりますが、

 

 

分かるために努力しているような毎日です。

 

 

 

甲骨文を知らないまま書いている方を

 

少しでも減らして、甲骨文を書きたいという方に向けて

 

 

甲骨文を可視化(見える化)して、

 

甲骨文の魅力をお伝えしたいと思っています。

 

 

ブログでは

 

資料作りの途中で思いついたことを発信しています。

 

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

知ってから書くとこんなに分かる、知ってから書けば、書きやすい

 

そんなことを思いつつ、纏めてまいります。

 

 

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

我が家に、

 

なぜか居ついた三毛ちゃんから始まって、

 

ふらっとやって来て、

 

ふっと出て行ったイケメンの黒。

 

そして、もうやって来ないらしい、小顔の美人茶トラ。

 

 

みんな美形だった。

 

だから、美しい猫が好き。

 

 

それが、昨日駅へ向かう途中の塀に、年よりの猫なのだろう、

毛に艶がなく、黒白の毛色が決して美しいとはいえない、ハチャメチャに白と黒を汚く混ぜたような

猫が座ってこちらを見ていた。

 

目が合った。

 

 

汚いけど、可愛い~

 

ブサイクな猫も、可愛いと思った。

 

 

 

 

玄関を開けて野良ネコがいた喜びがまったくなくなり、

いま、わたしはたぶん寂しいのだろう。

 

 

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

宣誓の場面

 

 

 

 

◎棄の字源 

 

子を箕の中に入れて、両手の形「廾(きょう)」を加えた形で、すてる、放棄の意味。白川氏は、『春秋左氏伝』などの伝世文献から、捨て子の習俗を示すとする。上下反転した子の形(甲骨文一番下)が継承された。

 

 

 

西周金文の字例は残念ながら、今のところ、この散氏盤の一例しかないようである。

 

ネットの国学大師、小學堂金文、古音小鐘でも一例。

 

 

 

例によって、

 

ぐちゃぐちゃした感じであるため、

 

 

字源から、

 

赤子の形と、箕と、両手に分類して、

 

書いていった。

 

 

 

書道資料一部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書く順番はあくまでも目安であるが、

 

 

こうして添付することで、

 

 

古代文字は、

 

構成要素ごとに書いていけばよいのだなという感覚がつかめてくる。

 

 

 

古代文字書家の安東麟でした。

 

 

散氏盤の夨側による宣誓の場面

 

 

 

 

なにこれ~。

 

どう書けばいいのよ~。

 

この白いところを書けばいいのかな。

 

 

 

 

そう思ったら、

 

隹

 

の形を想起することが大切。

 

想起できなければ、調べるほかない。

 

 

ネットの国学大師、小學堂金文どちらも便利ですぐに同字比較ができる。

 

 

とりの形なのだから、

 

 

 

散氏盤の文字が

 

こんな風に変な形になってしまっていても、

 

そのまま書いてはいけない。

 

 

 

 

いや、待てよ。ヘンテコであっても、

 

古代の書記者は、とりの形を書いていたはずだと

 

思わねばならない。

 

 

我は、古代文字を専門にした書道教室を開いているので、

 

今回、教室では

 

散氏盤の内容を読み取って、釈文、訳を丁寧に読みこんで、

 

この古代人はどう書いていたかということを

 

生徒さんとともに問題にしながら、眺めている。

 

 

この古代人は一筋縄ではいかない。

 

 

左手で書かれたとまことしやかに言われてきて、

 

下手な金文代表で、左右対称の篆書の中にありながら、

左右非対称な文字が多いから、オモシロ金文として

愛されてきた散氏盤だけれど、

 

 

 

急に、

 

こんな文字が現れる。

 

 

 

左右対称で、いかにも、落ち着いた金文の文字である。

 

この正確な、左右対称の文字を書ける人なのだ。散氏盤の下書きをした古代人は。

 

 

 

さて、発語の「これ」の文字

 

 

さて、これをどう書いていくのか。

 

 

冒頭に記したように、なんのことはない。別に悩むこともないのだ。

 

 

だから、わたくしは鼻歌を歌いながら、拓大した拓本の上にトレーシングペーパーを置いて、

トレースし終えた。

 

 

 

この散氏盤を書いた古代人は、

 

世にも珍しい文字を書こうとなんて思ってやしないのだ。

 

古代にあって、文字を書ける、文字を司れる書記者である。

 

 

天来書院テキストシリーズ金文では、八三番 四九頁3行目の一番下からが誓約した文章がはじまる。

 

 

契約文書で、今の、土地の権利証と同じ。

土地の境界が明白になったので、関係者による誓いの文言が交わされていく。

 

 

 

これからも、丁寧に古代の文字と触れ合いたいと思う。

 

 

以上、散氏盤の「唯」について古代文字書家の安東麟でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

『散氏盤』全文を読んで、散氏盤の釈文を付けて、

書いていくというお教室を東京で展開している。

 

 

数回に分けて『散氏盤』を読んできた。

 

 

 

今回は、宣誓部分。

 

 

 

◎釈文

(もしも)事実と異なることがあって(約束を違えることがあって)、わたしが散氏の心を苦しめるならば、則ち違約金千・千の罰を受けて、(わたしを捕えて)放逐(ほうちく)せよ(追放して構わない)」と。

 

 

 

 

 

散氏盤では、こうして、夨側が絶対に嘘はつきませんと、宣誓している。

 

このブログではイメージ図の絵が大きいが、書道資料では小さい。

 

 

 

 

 

さて、書くためには、同字比較をしないといけない。

 

 

それで、

 

甲骨文から順に時代順に文字をネットで調べて貼っていった。

 

 

そこで、手が止まってしまった。

 

 

 

 

 

 

いつものように、ネットの国学大師、小學堂と、殷契文淵、漢語多効能字庫調べの途中で、

 

あれ?

 

同じ文字なのに、(甲骨文合集〔こうこつぶんがっしゅう〕8451)

 

国学大師、小學堂では点があって、

殷契文淵では、小点を付していない。安東は長いこと白川静説だったので、

白川先生の新訂『字統』を見続けてきたので、「棄」の甲骨文には、

点があると思い込んできた。

 

 

 

さあ、こうなったら、拓本を見るほかはない。

 

国学大師では、甲骨文合集番号を打てば、拓本が見られる。

 

 

 

 

こうして

 

『散氏盤』の書道資料では、

 

文字変遷を次のようにした。

 

 

 

「棄」の文字変遷

 

 

 

 

 

「棄」の甲骨文には、小点はない

 

と結論付けたのであった。

 

 

 

古代文字書家の安東麟(あんどうりん)でした。