天来書院『甲骨文』二番

・ねらい 天来書院発行のテキストシリーズ『甲骨文』を使用し、字源は落合淳思氏の著書に拠り、殷代の時代背景や字形の細部を探求する。

 

 

 

 

 

甲骨文合集一〇一二四 http://www.guoxuedashi.com/  https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/

 

甲骨文の占いの場合、亀甲は、背中の甲羅ではなく、腹甲を使用。腹甲の地面につく方が、正(表側)。

 

占卜前に、腹甲を四ミリ程度の厚みに加工し、正(表側)に、卜字形のひび割れを出すために、反(裏側)に円形の(さん)(さく)の窪みを削っておく。

占卜儀礼では、鑽に熱を加えてひび割れを起こし、王はひび割れの角度を見て占卜した。

この亀甲は、穀物に関する吉凶二つの占いであるが、合計四〇ものひびを作っている。吉と出るまでひたすらひび割れを入れ続けたのであろう。(後には、ひび割れは少なくなる)

 

 

 

甲骨文は肯定文、否定文の一対で問うのが通例で、文の中に「()ふ」の文言があることから、①②を対貞(たいてい)という。

 

対貞①②の貞人の問いかけの後、王がこの亀甲のひび割れの形を読み取って、吉凶禍福の判断を下す。王の判断した言葉が③であり、ここでは、裏側中央にある。これを占辞(せんじ)という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎天来二番の六頁の説明 

➁の最後の文に「二告」とあるが、天来七頁に、二告は兆辞と説明があるため、占卜内容ではないため、読まない。

 

 

◎天来➀「隹」の骨書き

 

 

佐野氏は隹の足の形が見難いため、骨書きに書かなかったが、ここでは同版上の左右反転形の「隹」を参照して、足の形を付してトレースした。

その理由は、次に考察するが、古代の書記者が「隹」字を記す時には、足の形を加えることを基本としているからである。

 

◎天来七頁の骨書きにて「隹」(五文字目)の羽を鳳のように書いているが、「隹」にそのような字例はない。

また、七頁の「由」字の骨書きには、余計な横画を加えている。

 

 

 

◎「帝」について

 

落合氏に拠ると、「帝」は、甲骨文に占卜を刻しはじめた武丁王の(しゅ)(しん)であったという。

主神とは、祭られている祭神の中で、中心となる神。(主神(シュシン)とは? コトバンク (kotobank.jp)

 

「帝」は武丁代に刻された甲骨文では、殷を建国したと考えられた祖先神や、祖父や亡き父の神、または、岳や雲などの自然神よりも、機能が大きく、戦争の勝敗も、殷王が作った都市(「邑」)の運命をも左右するという存在であった。武丁は、主神として「帝」の神を設定し、その信仰を司ることで、自身の宗教的権威を高めようとしたのであろうと記述する。

 

つまり、天来六頁では「甲骨文の記録」と記述するが、甲骨文すべて、殷代後半すべてに、帝の信仰があったのではなく、二一代の武丁王が信仰した絶対神だったのである。字源は落合氏は、殷王の武丁の主神「帝」を祭る机の形、白川静氏は最も尊貴な、帝の神を祀るとき、酒食などを載せる台の形として、台の交叉する脚を中央で結んだ大きな祭卓とする。

 

 

 

 

◎「年」字について

 

穀物の象形である「禾」と人の側身形で、収穫した穀物を掲げている、あるいは担いでいる形で、甲骨文では、穀物の実りや収穫の意味。

 

収穫が一年に一回であったことから、西周代以降、「とし」の意味で使うようになった。ちなみに、殷代に、一年を指す文字としては、「歳」、「祀」字が用いられている。

甲骨文で「(ねん)」と読むと、(とし)の意味と勘違いされるため、「(みのり)」と訓読みで読む。天来六頁では、「その年の収穫が」と記されているが、甲骨文の「年」には、一年の意味はない。

 

 

◎「  」について

 

字形は、上部が、横を向いた人の足の形。下部が、蛇の形で、たたりの意味。ここでは、天来に拠って、足の形「止」と蛇の「()」を合わせて隷定(れいてい)した。(隷定とは、古漢字の構造を活字で転写する方法)

隷定字の加工は、ネットの GlyphWikiを使用した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、池袋の勉強会の

 

天来書院テキストシリーズ甲骨文二番の甲骨文講読資料であった。

 

 

甲骨文マニアのおばさん安東麟でした。

 

 

 

東京の池袋にて、甲骨文の勉強会がある。

 

以前は、西周金文の『大盂鼎』、その次は『毛公鼎』を読んだ。

現在は、天来書院テキストシリーズ甲骨文を読んでいる。

 

月1回 第2週の土曜日10時から12時まで。 

池袋から徒歩8分の篆刻家の清水先生の御実家で、

たった8人。

 

安東が作成した甲骨文の資料を読んだ後、お茶を飲んで、お菓子を食べつつ

甲骨文の情報共有や示唆を行う。

 

今週の5月9日は、15番の婦好の分娩について。

資料がギリギリセーフで出来たため、

 

まずは、ここに第1回目の資料を添付してご覧いただき、

 

もし、東京近郊の方で、いらっしゃることが可能な方を勧誘したい。

 

 

 

 

 

 

・ねらい 天来書院より使用快諾を受け、テキストシリーズ『甲骨文』(以下、天来と表記)を読みつつ、解説、または訂正を加えていく 祭祀や戦争、収穫などの内容に触れ、字源探求など、基本的な知識を手に入れたい。

 

基本情報1 甲骨文は、今から三〇〇〇年前、殷(商)時代の後半期(紀元前一四世紀から前一一世紀)に使用された占卜内容の記録。(河南省安陽の殷墟)

 

基本情報2 甲骨文とは、亀甲獣骨文の略。

 

基本情報3 あらかじめ甲骨の反(裏側)にくぼみを作っておく。祭祀において、裏側のくぼみに熱を加え、甲骨の正(表側)にひび割れを発生させ、王は、そのひび割れを見て、吉凶判断を行った。

 

基本情報4 占いの後、占卜の日にちや、占卜内容である、王の吉凶判断、実際の結果までの記録を、甲骨に、筆で下書きをしてから刻し、もしくは、下書きをしないで直接刻した。

 

 

 

 

 

 

◎五頁 図五の碧玉刀について

「婦好墓魚形碧玉刻刀」は、甲骨文を初めて刻した武丁王の妃である婦好の墓より出土した玉器(翡翠)。握るところが魚の形をしていて、目は繰り抜かれ、背びれの表現もあるようである。魚の他に、鳥や亀、四つ足の生き物の刀もある。

 

図五の青銅刀について 未見。松丸道雄氏に拠ると、甲骨文は青銅製の刀で刻され、V字形の刃先をもつ刀だったはずと記述されている。⑵ 

 

 

◎「双刀法」とは、一回彫った、同じところをもう一度彫って太くしていく方法。「単刀法」は一度だけ彫る方法

例えば双刀法による「伐」字(右拡大)であれば、「亻(人偏)」の不自然に太くなった斜め画に、太くしようとする意識が見える。

この「羌」字の斜め画は、同じ場所を二回彫ろうとしたのだが、微妙にずれて彫っている。

 

 

前頁の「鳥星に卯す」の亀甲のように、「双刀法」は大字で、小字は「単刀法」で刻されたものもあれば、二〇番のように、「双刀法」と「単刀法」ともに文字の大きさは変わらないものもある。

 

◎「大字」「小字」「蝿頭の字」→董作(とうさく)(ひん)が甲骨文の説明で使った文言。「蝿頭の字」とは、蝿の頭のような小楷のようだとして、第五期の小さな文字を厳粛で整った書風として喩えた言葉。

【董作賓は、中華民国の甲骨学者。殷墟を発掘し、甲骨文を一期から五期に分けるという五期区分を『甲骨文断代研究例』(一九三三年)にて発表した。】

 

 

 

五頁 図六について

例 彫り忘れ 拡大「田」

「趙銓氏」の甲骨文は一文字ずつ彫ったという主張は、図六に添付されているような例(甲骨文を効率的に彫れるように、まずは縦だけ彫って、九〇度回転させて、また縦だけ彫る)は、甲骨版上に、下書きがあり、甲骨文は書いた後で刻されたということを示す証拠となる。しかし、趙銓氏はその説に異論を唱え、このような彫り方は普遍的ではなく、殷代の契刻者は、直接上から順に一文字ずつ彫刻できたと主張した。⑷ 

 

 

 

◎五頁 「書いた後で刻した」「書いてから」について

佐野氏は、筆での下書きを示唆している。松丸氏も「当時、毛筆による書写が行なわれていたことは確実」と記述され、甲骨文に、筆を示す「(いつ)」字や、束ねた竹簡を示す「冊」字などがあることから、筆や竹簡は出土していないが、殷代において文字は、書かれていたことが推測できる。

証拠(エビデンス)→甲骨文「聿」「冊」

 

七頁 「占書に照らし合わせて判断」

「占書」とは、占う内容が書かれたもののことであろう。この天来二番であれば、帝が実りを祟るか、祟らないかと書かれた竹簡などのことである。

 

 

「占書」(占いの文)は書記者によって、基本的には、甲骨版上に下書きされ、また、最小の文字は、下書きせず刻されたのであろう。

これまで、甲骨文のイメージといえば、刻したものという印象だけではなかったか。しかし、これからは筆文字の思考も加えたいと思う。

→甲骨文書法の思考に繋がる。

 

 

◎七頁  「周原の甲骨」について

添付したのは反(裏側)で、鑿が四角い。(周側が作った甲骨文の文字は、一文字一、二ミリで肉眼では見えないという。)

周原甲骨-抖音百科 (baike.com)

 

 

 

◎七頁 「反文」

「反文」とは、左右反転形のこと。甲骨文は左に添付したように、中央から外側に向かって文を記す左右対称のものもあり、文字も、「隹」字や「年」の人の側身形が中央に向かうように作られている。(例外として「右」字、「左」字の、左右反転形はない。)

 

 

ひと月1回、天来書院テキストシリーズ甲骨文に掲載されている甲骨文を読んで、

 

資料に纏めている。

 

 

少人数ではあるものの、資料の誤りをすぐさま指摘して下さったり、

 

どうして〇〇なんだろうと疑問を提示してくださるため、

 

書くことに重点を置く、

 

書道の生徒さんとは、また異なった思考法なのか、それらの示唆に楽しく学んでいる。

以上、天来掲載甲骨文についての資料であった。

ando-rin@nifty.com

 

甲骨文マニアのおばさん安東麟でした。

 

 

 

 

 

 

 

今朝の東京は春の陽ざし。

 

昨日とは打って変わって早朝から暖かいのに、

 

昨日の大雨の寒さが相当辛かったのか、

 

朝から植木鉢で丸まる茶トラ。

 

 

 

玄関前は陽ざしがないから、

 

いまの、この気候がよく、気持ちのよい

 

お日様を浴びた方がよいのではないだろうかと思うが、

 

 

 

 

いま、この茶トラは、

昨日の寒さの記憶だけで寝ているようにも見える。

 

 

 

「昨日よりは、とても良い」

 

 

そんなことを思って寝ているのではなかろうか。

 

 

幸せに眠れる時に、眠っておく。

 

これが野良ネコの鉄則なのであろう。

 

野良猫を可愛がるあまり、ご飯が心配で

一人温泉に行きにくくなった甲骨文、西周金文マニアのおばさん安東麟でした。

 

データベース忘備録で、ネット調べが炸裂している日々の中、

少しだけ、気になる記事があって、心が動いたので、それについて。

 

 

以下は、漢字研究の先生が記述したブログの文言。

写真も漢字研究の先生が撮られたもの。
 
抜粋して提示する。
 
 
 
 

漢字研究ブログ: 泉屋博古館分館でやってる「金文展」に行った

 

2019/11/19泉屋博古館分館でやってる「金文展」に行った

泉屋博古館分館で11月9日から開催されている「金文展」に行ってきた。

 

僕が見てきたのは、開催前日に行われた「ブロガー内覧会」というもので、ようは記者は先行して見ていいよというヤツである。そういうわけで本来撮影禁止のところ、許可を得て撮影ができたので、ここでレポートしたい。

 

 

(ブログの文言 抜粋)

 

 

 

 

 

鋳造技術を知った上での、書道体験の写真

 

以下漢字研究の先生のブログの文言。

 

 

 

ここに手本として掲示されている拓本はみな反転はしていない。二行以上あるものは、竹簡と同じく右から左に向かって行が進んでいく。しかし、上記の山本氏の仮説が正しければ、銘文作成の際には筆で、これらをそのまま反転した字を書いていたということになる。そういう面で、ここに掲載する手本は左右反転しておくべきだったと突っ込んでおきたい。商・西周文字には正反区別がない例も多少はあるが、おおむねその方向は固定的であり、もし金文のために左右反転した字を書いていたのだとしたら、銘文筆者はなかなかのやり手である。

 

 

 

以上が、漢字研究の先生がお書きになられたブログの文言であった。

 

山本氏というのは、泉屋博古館の学芸員の先生のこと。

 

漢字研究の先生はブログの文言にラインを引いて強調し、書道体験を左右反転しておくべきと突っ込みを入れているが、

 

一般の方たちが初めて行う金文筆書き書道体験にプラスして、

 

その当時、金文にする文字は、まずは、書いた文字を左右反転にして

 

そこに泥水を加えていって

 

盛っていくという

 

鋳造技術の体験を加える必要もなかろう。

 

 

つまり、書道体験に、左右反転形を求める必要はないであろう。

 

と言いつつ、

 

この傍線のところに、ひと言言いたいわけではなかった。

 

 

 

 

 

漢字研究の先生は、ブログの中で、卓越した研究を披露しておられるのに、

 

「もし金文のために左右反転した字を書いていたのだとしたら、銘文筆者はなかなかのやり手である。」

 

として纏めている。

 

 

 

あれ?

 

先生~

 

 

 

一つの

 

大いなる

 

視点を忘れてはいませんか。

 

 

左右反転形といえば?

 

 

 

 

「左右反転した字を書いていたのだとしたら、銘文筆者はなかなかのやり手」

 

いえいえ、古代の書記者が

 

左右反転形で書くなど、お手の物。

 

 

 

 

そう、漢字研究の先生が忘れた視点は、甲骨文である。

 

甲骨文を思い起こせば、何のことはない。

 

 

 

史語所數位典藏資料庫整合系統

 

(これも、会員になる必要もなく、クリック一つで拓本と写真が見られる。

ただ、調べたい甲骨文の番号を事前に知っておく方がラク。国学大師などで調べてからの方がよいかも)

 

 

例えば亀甲を使った占いに使われた甲骨文は、

 

亀のお腹の甲羅にある中央の溝を境にして、

 

右側と左側に吉と凶の占いが刻された。

右側に吉、左側に凶と言いたいところだが、右側に凶が彫られたものもある。

 

もっと言葉を付け足すと、

 

殷代(いんだい)の王さまは、占卜儀礼を政治に利用していた。

 

占卜儀礼を行う際に、吉凶判断が行われた。

 

一回の占卜儀礼で、いくつの吉凶判断占いが行われたのだろうか、よく、分からない・・・

 

王の横には、吉凶判断の担当者である貞人(ていじん)が傍らにいたはずである。

 

(貞人は恰幅が良くて、偉そう。←ただのイメージ)

 

亀甲の裏側の窪みを焼いて、表側にでたひび割れを王は読み取って、

 

儀礼に出席している者たちに聞こえるように吉凶判断をのたまわった。

 

 

 

記録者の視点からこれを眺めると、

吉と凶の占いを記録した。

 

日々記録していたものはおそらく竹簡。細い竹を左手で持って、右手で筆に墨を付けて書く。

 

書記者は、竹簡に王が行った吉凶占いを忘れないように日付と内容、王の判断を書いておいた。王が凶と判断した場合には、その凶といった通りに、悪い事が起こったと書いた。

そして、そこまで竹簡に記録したら、

 

亀甲の中央から左右に分けて、

 

吉・凶を行った、ひび割れの近くに、ひび割れを避けて、彫っていった。

 

わたくしのように、おっちょこちょいな書記者は、亀甲の上に、その記録を見ながら、

下書きを書いていき、彫っていったのだと想像している。

 

 

 

 

 

 

そして、

 

 

今回の主題。


 

 

 

左右に分けて書かれ、彫られた吉・凶の文や文字は、

左右対称に書かれ、彫られることが多かった。

 

例えば、この亀甲の左右に分かれて刻された吉凶占いの「伐」字であれば、

人の側身形が中央を向くように刻されている。

 

人のちょうど首のあたりに戈(ほこ)の刃が当たっている形で、首切りを意味している。

 

  ↓        ↓ 

 

 

つまり、

 

 

漢字研究の先生は「左右反転した字を書いていたのだとしたら、銘文筆者はなかなかのやり手」

と記述したが、

 

残念ながら、甲骨文の想起が無かったことから、ただただ「やり手」として賛美してしまったが、

 

古代中国の殷代の甲骨文を経験している書記者であるならば、

 

金文の鋳造段階にて、左右反転形を作ることなど簡単であった。

 

以上、データベース忘備録作成を行っている途中に横道に逸れてしまった。

 

 

甲骨文西周金文大好きおばさん安東麟でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在、安東は、書の研究会での発表に向けてネット検索まっしぐら。

 
データベース忘備録として、『説文解字』関連や、容庚先生が纏めた『叢帖目』の卷16に関するものを、
 
調べては貼り付けている。
 
この勉強法を御勧めしたい。
 
自分のための、データベース忘備録の資料を作っておくと、後で再び眺める時に超簡単。
 
まずは、調べたタイトルの横にhttpを貼り付けて、
 
どんどん貼っていって、だいぶ溜まって分かりにくくなってきたなと思ったら、
あいうえお順や、時代順にして、自分の忘備録の中を整理する。
 
 
 
いま、検索ネット上には、以前の、蔵書が増えてたまらないという研究者にとっては、
 
びっくり仰天の環境が広がっている。
 
書庫に入りっぱなしの、貴重な古い書物であっても、
 
いまは、クリック一つですべてが見られるようになっているものが多い。
 
そんなことをひとたび知ったならば、わたくしのような
 
一般のおばさんでも、世田谷の自宅にいても、
 
 
「これが、乾隆帝が纏めさせた清代の資料なのね~」と言いながら眺められる。
 
 
目は細めない。
 
なぜならば、拡大できるから。
 
 
また、今日も、データベース忘備録勉強法が炸裂している。
 
楽しい。
 
 
いまは、甲骨文、西周金文から離れているが、
本当は、野良の、甲骨文、西周金文研究おばさんの安東麟でした。
 
 
 
 

 

 

なんだこれ、これは大昔の漢字か?

 

そう思った、あなたは、これを絵ではなく、

漢字であると一瞬で見分けられたことから、金文が書けると思います。

 

 

 

あら~、可愛い。

 

そう思った、あなたは、すぐさま金文(きんぶん)が書けます

 

 

大昔の漢字って変なの~、でも、面白いわ~

 

そう思った、あなたは、金文マニアになれます。

 

大昔の漢字も、書道の範疇に入ります。

 

その理由は、そもそも金文(西周金文)とは、青銅器に鋳込まれた文字のことで、

 

書記者が筆で書いた文字を使って鋳造されたので、筆跡が残っているのが金文です。

 

筆で書かれた出土資料は、書道の範疇に入ります。古代の書記者が残した文字です。

 

 

これは、頌鼎という金文の、監督の「監」の文字です。

 

監督のイメージといえば、指導者として皆を俯瞰して見ているという印象です。

 

この金文「監」がまさに

 

目を強調した人が、下にある皿を凝視する様子から、みることを表しています。

 

 

 

古代の文字である金文は、知れば知るほど、

 

今と違うことではなく、

 

今との繋がりを感じさせてくれます。

 

文字はずっと続いてきたんだな~と思います。

 

今回は、ここまで。

 

 

頌鼎の資料纏めの途中でした。

 

金文オタクのおばさん安東麟でした。

 

 

金文を書作品の素材として扱おうとした時に、

 

全く知らないでは書けないことを、

 

このような複雑な文字は教えてくれる。

 

 

西周後期金文『頌鼎』の「書」の文字である。

 

 

 

いま、これを読んでいる方に質問したい。

 

この文字を見て、拒否反応はないか、と。

 

 

 

甲骨文や西周金文の説明を見たり、聞いたりしているとき、

 

 

ほんの少しでも

 

あ~、分かった

 

と納得することができたら、

 

そしてまた、

 

あ~、面白い

 

と思うことができたならば、

 

書くことができる。

 

拒否反応がなければ、書くことが必ずできる。

 

 

いや、いきなり書こうとしない方がよいかもしれない。

 

 

まずは、インプットして、

 

インプットして、

 

インプットして、

 

そうすれば、アウトプットができる。

 

 

まずは、面白いと思ったならば、

じっくり取り込んで、

自分が出来る範囲で調べて、学んで、

 

書きたい気持ちを高めていって、書いてほしい。

 

そして、

 

金文を書く前の絶対条件は字源調べ。

 

 

「書」はなんでこんなヘンテコな形をしているんだろうと思って調べるのが字源である。

 

成り立ちにヘンテコ字形の答えがある。

 

 

まずは、一文字ずつでも良い。

 

金文学習を始めてみたらいかが。

 

 

 

金文マニアのおばさん安東麟でした。

 

 

 

西周時代も後期になりますと、

 

前期にあった旺盛なる活動の外征、外発力はなくなり、

 

礼楽制度が定まるとともに、内側、内部に向かう力が強まり、保守的になってきます。

 

 

政治がそういった志向ですと、文字にも反映されてくるのでありましょう。

 

特徴としては、一文字の大きさを揃えたいという字枠意識が芽生え、

 

縦行横行をそろえる意識が強くなり、左右均整にまとめ、収まり、整えて書すといった傾向となります。

 

これは明らかなる進歩なのです。

決して、外発力が旺盛な動的な前期金文より劣るという目で見てはいけません。

 

画数の多い文字は大きくなる傾向のあった西周前期金文を経て、

画数に無関係で、同じ大きさで書いていく、この古代の書記者が痛いほど分かります。

 

決してわたくしは、「無表情な線」という表現はいたしません。

 

西周金文の前期から、後期への、進歩なのですから。

 

文字は同じ大きさで記せば、縦行横行が揃い、文字は整理される。

整頓された文字が、最大なる美として捉えられたに違いないのです。

 

 

そういった視点でこの西周後期金文を眺めると、同じ太さで頑張って書こうとしたのだなと思います。

 

いま目の前に古代人がいたら、ハグして一緒に喜べます。

 

天来は、原寸大ですから、この大きさで古代の書記者が書いたと実感できますし、

 

儀礼の次第で、頌さんが王から命令を受けた儀礼のさまも想像できますし、

 

金文に鋳込まれた書記者の文字も大変見やすいため、文字調べをしつつ、トレースを行うことも難しくないため、

 

頌𣪘は、資料が作り易そう。

 

金文オタクのおばさん安東麟でした。

『頌鼎(しょうてい)』や『頌𣪘(しょうき)』など頌さんが作った青銅器は多数。

 

これは天来書院テキストシリーズ六四番の金文です。

 

 

『頌𣪘』でも、

天来の『頌簋』でも変わりはなく、𣪘も簋も同じです。

𣪘は西周金文に記された𣪘の字形を隷定(れいてい)した文字で、

簋は主に伝世文献で使用されてきた文字です。安東は𣪘を使用しているというだけです。

 

 

 

 

冊命(さくめい)形式の、金文(きんぶん)です。

 

冊命とは、

 

王からの命令や賜与を受ける儀式(冊命儀礼)の次第などを記録した文書のことです。

 

当時は紙がまだ発明されていない時代。

 

竹を細く切って1行ずつのようにしたてて、そこに書記者が文字を書いて、

1行(一枚)ずつ紐で繋げて巻いたのが竹簡です。ドラマでの再現では、

右手と左手を駆使して、読みながら右手でくるくると巻いていました。長いものですが、結構読みやすく、持ち運びも便利だったと想像されます。

 

筆で文字が書かれた竹簡の形が「冊」(甲骨文にも用例のある文字)、そこに命令文の「命」を加えて、「冊命」。

 

もとは竹簡に書かれた冊命。

 

 

ただし、

 

 

竹簡は、焼かれたらひとたまりもない。

 

そして、腐る可能性も大。

 

王から頂戴した、命令や、賜与品が記された文書の、いわば王との繋がりの証拠となる竹簡の消滅を恐れた古代人は、

 

永久に証拠が残る青銅器に文字を鋳込むことを生み出したのでありました。

 

 

冊命が記された金文には、

 

 

任命式の日時、場所、儀式の次第(入廷(にゅうてい)命書(めいしょ)拝命(はいめい)祝言(しゅうげん))、そして、任命(にんめい)された資格を象徴する車馬衣服などの賜与の記録があります。

 

 

 

 

儀式の次第、順番は決まっていてようで、

 

その決まっていることを、古代人が淡々とこなしているのが分かります。

 

 

王は南を向いて立ってから、受命者が入ってきて立ち位置について、王の命令は書記者に読ませ、

受命者は頭を下げて退出してといった感じです。

 

 

古代の儀礼をイメージすることが出来ましたでしょうか。

 

西周後期金文にはこのような冊命儀礼を記した冊命金文が多く見られます。




こんな説明をしながら、西周金文の文字を探って、

マニアの書道教室を開いています。

 

 

金文オタクおばさんの安東麟でした。

 

やっと

 

やっと

 

解りました。

 

 

 

 

敘曰(敘にいわく)

 

とあるため、

 

『説文解字』は序ではなく、敘と記述するんですね。

 

はい、やっと理解できました。

 

 

はい、一歩前進。

 

甲骨文ばかり勉強していて、『説文解字』はピッカピカの1年生の安東麟でした。

 

四月に相応しい、新しいことに挑戦するっていいなあ。