わが家の歴史 ~アンドゥ家の不思議な因縁~ | もずくスープね

わが家の歴史 ~アンドゥ家の不思議な因縁~

母が入院した。東京警察病院という、中野駅の近くにある、比較的新しくてキレイな病院だ。何度か見舞いに通ううち、「ひょっとしてここは…」と思い当たるフシがあり、調べてみると、やはりそうだった。そこは、かつて「陸軍中野学校」のあった場所だった。


もずくスープね-東京警察病院 (東京警察病院)



もずくスープね-陸軍中野学校趾   (陸軍中野学校趾)


そこはまた、元禄の時代に徳川幕府五代将軍綱吉が「生類憐みの令」政策により「犬屋敷」を設置した場所としても知られる。その後しばらくの間をおいて、明治38年から昭和13年までは、大日本帝国陸軍の鉄道連隊電信隊気球隊が設営されていた。私の父の父、すなわちわたしの祖父(故人)は、なんと、その中野電信隊に通信兵として勤務していた。そのことは、私が小学生の頃、祖父から直々に聞いたことがある。


鉄道連隊・電信隊・気球隊の去りし後、昭和14年より開始された「陸軍中野学校」は、謀略諜報活動の人材育成機関、すなわちスパイ養成学校であった。2008年12月8日付の当ブログ で言及したこともある、大陸で暗躍した、あの田中隆吉(川島芳子の愛人でもあった)が、同校の校長を或る一時期務めていたという事実からも、その怪しさは充分に読み取ることができるというものだ。しかし、学校の存在は、当然ながら世の中には全く秘されていた。やがて、静岡県に「陸軍中野学校二俣分校」も作られた。たとえば、ルバング島に約30年潜伏し続けていた小野田寛郎元少尉は、その二俣分校の出身者であった。


戦後になると、その場所は警察関係の土地となり、警視庁警察学校、警察大学校を経て、2008年に東京警察病院が飯田橋から移転してきたのである。そこに先日、わたしの母が担ぎこまれたというわけだ。


ところで、私の父はその昔、現在の国立国際医療研究センター病院の前身にあたる国立東京第一病院で、心電図技師として働いていた。そして母は同病院のナースだった。父母が出会ったその病院のさらなる前身は、戦前の東京陸軍病院であり、そこは陸軍軍医学校と隣接していた。父から聞いたところによると、陸軍軍医学校の建物は、戦後しばらく国立東京第一病院職員の寮として使われていたそうだ。


その陸軍軍医学校で細菌学を教えていたのが、誰あろう石井四郎(当時、陸軍軍医少佐)であった。そして、彼が同校地下室に作った「防疫研究室」こそ、後に満州における「関東軍防疫給水部」へと発展し、恐怖の「731部隊」として編成されることとなるのだ。


ときに、私の父母は結婚直後、豊島区椎名町に住んだ(昭和35年頃)。


椎名町といえば、そう、昭和23年に帝国銀行椎名町支店で起こった毒物殺人事件、いわゆる「帝銀事件」があまりにも有名である。その犯人は画家の平沢貞通とされ死刑を宣告されたが、冤罪の可能性高く、実のところ、毒殺に使われた人工的化合物を生成し得た真犯人は「731部隊」関係者だったのではないかと言われている。父母が椎名町のアパートを借りたのは、事件からずっと後のことなのだが、そんな椎名町で生まれ、その次に「陸軍中野学校」にほど近い中野区の町に引越し、そこで20年近くを過ごしたのが、私自身なのである。


昨今の私は、入院中の母に毎日付き添っている父と、東京警察病院のラウンジで、いろいろと昔話を交わす機会が増えた。そんな中、「731部隊」の話題を持ち出すと、驚くべきことに「石井四郎さんの心電図をとっていた」と父が言うではないか。聞けば、石井四郎(最終階級は、陸軍軍医中将)は、戦後、喉頭癌を患い、国立東京第一病院に入院していたという。彼が死去したのは昭和34年だから、母も同病院に勤務していた時期のはずだが、「石井四郎の名前は知っているが、会った記憶はない」と病床の母は言う。とはいえ、とにもかくにも、父があの石井四郎と会ったことがあるというのは、昭和史マニアの私を興奮させてやまない新事実なのであった。(父は、前述の小野田寛郎さんや横井庄一さんの心電図をとったこともあるが、そのことは、私も当時から知っていた)。


さて、これも2008年12月8日付の当ブログ に書いたことだが、現在の私の住居の近くには、明治大学理工学部(生田キャンパス)がある。そこは戦時中、第9陸軍技術研究所、通称「登戸研究所」があった。その研究棟の一部が、先ごろ資料館として公開されるようになったと聞く。私は、以前に同大学を訪れた際に「登戸研究所」に関連する幾つかの史跡を見学してまわったが、その中のひとつとして「石井式濾水機」なるものを見たことがある。石井四郎の発明になる有名な細菌濾過器である。汚水や河川水をこれに通せば、細菌を除去して、安全な飲料水を戦場で確保できるというもの。その「石井式濾水機」の存在は、「石井731部隊」と「登戸研究所」のつながりを示す一端といえるかもしれない。実際、「731部隊」で研究された細菌兵器は、まさにこの「登戸研究所」で開発されていたという。


そんな「登戸研究所」は、「陸軍中野学校」と同様に、世間には存在が隠されていた。その秘密研究施設において、「731部隊」と連携した細菌兵器のみならず、風船爆弾や殺人レーザー光線の開発、あるいは贋金作りなどにも取り組んでいたことが、戦後少しづつ知られるようになった。数々の動物実験も行われたようで、いまも「動物慰霊碑」がキャンパスの一角にひっそりと建っている。


…と、ここまで述べてきたとおり、わがアンドウ家は、なぜか旧日本軍の暗部と因縁深い歴史を偶然歩んできた。とくに私には、2月26日という「ニ・ニ六事件」の日に生まれた者として、そうした運命を引き寄せる何か特殊な磁力でも内在しているかのようだ。


2009年2月26日付の当ブログ に書いたように「ニ・ニ六事件」の叛乱行動の出発地のひとつだった「陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎」は、実際にこの眼で内部を見ている。或る取材で訪ねた「東京大学生産技術研究所」(約15年前)の建物こそ、その兵舎だった。今は取り壊され、そこに新国立美術館が建っている。


そのニ・ニ六の叛乱軍が占拠した山王ホテルや有楽町の朝日新聞社なども、まだ当時の建物があった時代に外観を、私はしっかりと目に焼き付けている。また、叛乱軍首謀者たちが処刑された旧陸軍刑務所内処刑場は、現在の渋谷区役所の南端あたりに位置していた。今は慰霊碑が立っており、渋谷公会堂やNHKに行く折には、そのつど一礼を捧げる私である。


さらに言おう。戦前の「陸軍士官学校」→「陸軍大本営」にして、戦後は「東京裁判」が行われ、さらには三島由紀夫がそのバルコニーで演説した後に自決した、現在の防衛省(市ヶ谷)は、そこがまだ自衛隊駐屯地だった時代、構内見学ツアーに参加した私である。


一方、私が大学生時代に教養課程として1年間通った日吉キャンパス。そこには、太平洋戦争末期に地下壕が掘られ、「日本海軍連合艦隊総司令部」が移転してきた。レイテ作戦、沖縄作戦、航空特攻、戦艦大和特攻などの指示はここから発せられたという。


そして、もうひとつ。戦犯たちが収容され、そのうちの何人かの死刑も執行されたのが「巣鴨プリズン」。その跡地に建てられた東池袋のサンシャイン60には、かつて私も数年間ほど、勤務していた。もちろん記念碑も何度も見に行った。


かように私や家族の人生は、旧日本軍の暗部、負の昭和史というべきものとの縁から逃れられない宿命にあるらしい、…といったことを、「陸軍中野学校」の跡地に建てられた病院の7階ラウンジから窓外の風景を眺めながら、改めて感慨に耽っていると、「犬の心臓…」と父が突然呟いたのである。「犬の心臓」?


ブルガーコフの小説の名前ではない。「犬の心臓を、実験で沢山使ったんだ」と言い出したのだった。咄嗟に「登戸研究所」の「動物慰霊碑」が脳裏を過ぎった私は、「え?」と聞き返した。何の実験なのか。まさか、父が実際に陸軍の暗部と係わりを持っていたとでもいうのか。しかし、年齢的に、そんな世代ではないはずなのだが…。

そのとき父の視線は、ラウンジの一角に置かれたAED(自動体外式除細動器/心臓発作の応急治療装置)に注がれていた。「あれ(AED)の開発に携わっていたんだよ。国立東京第一病院と東京女子医大の合同チームで」と父は説明した。その実験のために、多くの犬の心臓が必要とされたのだそうだ。なんと。またまた驚きの新事実。もしかしたら、心臓に多少の不安を抱えている私自身が将来において世話になるかもしれないAEDの開発に、父が関与していたとは、これまでの何十年間もの親子関係の中で、一度も聞いたことがなかった。少なからず感動を覚えてしまうわたしであった。


その後、母の病気に関する複雑な治療のダンドリについて、担当医師から非常にわかりやすい説明がなされた。これを聞いて、現代医学の進歩を改めてひしひしと感じたのだけど、しかしながら、その発展でさえ、犬の心臓どころか、皮肉にも「731部隊」による中国人の生体実験から得られた膨大なデータが大いに貢献していたことも、われわれは知り得ている。そのあと、第9陸軍技術研究所ならぬ、『第9地区』という映画を観ると、或る生体実験の場面があった。もちろん、「731部隊」のことを思い出さぬはずがない。われわれは、そうした罪深さをけっして忘れることなく、強く噛み締めながら生きてゆかねばならないのだと思う。…というか、そうあれと、わが家をめぐる不可思議な因縁が、常に私の耳元で囁き続けているような気がするのである。