73年前、大雪の降りしきる朝、帝都は…。
73年前の今日、すなわち1936年2月26日未明、東京では30年ぶりという大雪の降りしきる中、「昭和維新・尊皇討奸」を掲げる陸軍の急進的な青年将校達が天皇親政を実現すべく蹶起した。千四百数十名の下士官兵を率いて、政府中枢の重臣らを次々と襲撃・殺害し、霞が関・三宅坂一帯を占拠する。報せを受けた昭和天皇は激怒し、ただちに暴徒鎮圧の指示を下した。翌日、戒厳令が出され、九段の「軍人会館」に戒厳司令部が設置される。戒厳司令官に香椎浩平中将(当時)が、戒厳参謀には石原莞爾大佐(当時)が任命された。「叛乱軍は原隊に帰順せよ」との奉勅命令が下されるや叛乱兵たちは動揺し、投稿者が続出。2月29日、首謀者の一人・安藤輝三大尉がピストル自決を図った(未遂)後、遂に全員投降に至った。このクーデター未遂事件こそ世に言う「二・二六事件」である。
安藤輝三大尉。1905年慶応義塾舎監だった安藤栄次郎の三男として生れ、1926年陸軍士官学校卒業後、陸軍第一師団歩兵第三連隊に勤務、1934年に大尉となり、1935年には第六中隊長に任ぜられる。当時の日本は、1929年のウォール街株暴落に端を発する世界的な大不況のまっただ中。都市には失業者が溢れ、農村では貧窮が深刻化。その一方、軍部は内部抗争に明け暮れ、政治も無力化するばかりだった。正義心の強い安藤は、国家社会主義者・北一輝の影響を受け、次第に「昭和維新」の断行に傾くも、2.26の蹶起には時期尚早として最後まで反対していたという。しかし蹶起の後は、叛乱軍の中で最後まで頑なに降伏を拒み、その挙句に、ピストル自決を図ったのであった。また、彼が蹶起直後に担当した鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃では、侍従長をピストルで撃つも、夫人に助命懇願され、とどめは刺さなかった。かくのごとく強固な意志と温かい人情とを持ち合わせた彼のキャラクターに、多少なりとも好意を寄せる歴史ファンは少なくない。かくいう私自身も、同じ「安藤」の姓を名乗るものとして、それとない親近感を覚えてしまうのである。その一方で、安藤らを討伐する側に回った石原莞爾(満州事変の首謀者)のことも実は敬愛してやまない私なのだが…。
安藤輝三大尉の所属していた「陸軍第一師団歩兵第三連隊」の兵舎跡には、現在「国立新美術館」が建っている。黒川紀章の設計になる、美術ファンにはおなじみの場所である。私自身も何度も足を運んでいる。今の美術館が建てられる以前、2001年までは「東京大学生産技術研究所」として、過去の「歩兵第三連隊」兵舎がそのまま利用されていた。私はそこを、かつて一度だけ訪ねたことがある。1995年、当時、東大の大学院生だった西角直樹さんという人が、研究所のサーバーを使って、「えんげきのぺーじ」という、日本で最初の演劇ポータルサイトを立ち上げた。それを雑誌「演劇ぶっく」で紹介すべく、坂口真人編集長と共に取材に行ったのである。古めかしい建造物の内部に漂う「負の昭和史」の臭いを嗅ぎとりながら、「嗚呼この建物から、安藤輝三大尉に率いられし兵士達が大雪の中を出発したのか」と、ちょっとばかり感傷的な気分に浸ったものである。そしてまた「その同じ場所から日本のインターネット演劇史が始まったのか」と、今にして改めて感慨深く思う次第なのである。
一方、戒厳司令部参謀・石原莞爾の陣取った九段の「軍人会館」とは、現在の「九段会館」である。日本武道館のお隣なり、そして靖国神社の斜向かいに位置する、その帝冠様式の建物は、昔日の帝都の面影を今に伝えている。そこへは、つい4日ほど前(2月22日)、「あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜~惑星漂流60周 in 東京~」というコンサートを、私は見に行ったばかりであった。この私も個人的にお世話になったことのある「あがた森魚」さんの還暦祝いとして、鈴木慶一、武川雅寛、和田博巳、駒沢裕城、本多信介、渡辺勝、かしぶち哲郎(以上、元はちみつぱい)、久保田麻琴、浜口茂外也、矢野顕子、緑魔子らが集まり、もちろんあがたさんメインボーカルで往年の名曲を次々と再現してゆくという、すこぶる貴重なライブであった。終盤では、元ベルウッドレコードの三浦光紀氏が、あがたさんに呼ばれて登壇、「日本少年(ジパングボーイ=あがた)と日本少女(ジャパニーズガール=矢野)の共演は夢のよう」などと語っていた。私は、これら伝説の復元のような光景を、何故か最前列の席で見ることができた。そして我が左隣には萩原健太&能地祐子夫妻が坐っていた(お二人と面識こそないが、この並びは、大昔、ピエール・ブーレーズ指揮ロンドン響をサントリーホールに聴きにいって以来のことだ)。また終演後、会場内でKERAさんとばったり会い、最新監督作品「罪とか罰とか」の二種類のチラシをいただいた(チラシをいただく以前から「これは絶対に見るぞ」と心に決めていたのではあったが)。また、名古屋から駆けつけた少年王者舘の天野天街さんや映像作家の濱嶋さんとも出くわし、NHK教育テレビ「バケルノ小学校」ディレクター後藤さんも合流して皆で楽しく呑んだのであった…(ちなみに、この日のあがたさん、「バケルノ小学校」校歌は歌わず終いであった)。
それにしても、平成の東京の光景を目の当たりにしながら、その皮膚をついペロリとめくり上げ、「負の昭和史」の記憶を剥き出しにしなければ気が済まない私の性分とは一体何なのであろうか。それはきっと、私の生まれたのが、1936年2月26日ならぬ昭和36年2月26日であることに起因するものなのかもしれぬ。その奇妙な因縁から「二・二六事件」に共振するDNAを持ち合わせて、この世に生を受けてきたのが自分なのではないかと思っている。そもそも「二・二六事件」は私の誕生した時からたった25年前の出来事ではないか。時間軸としては、私が生まれ今日まで過ごしてきた年月よりも、よっぽど短いのだから。…こうして「二・二六事件」の記憶を二重螺旋の中に刻み込まれて生まれてきた自分、あんどうみつおは、その後の人生においても、鼓膜の裏側で「軍靴の響き」が絶えず聴こえていたように思えてならない。しかし、それについて語り出せば、また長くなるので、今後にまわすこととする。
(追記;自分以外には、いかなる人物が2月26日生まれなのであろうか。インターネットで調べてみると、以下のとおり結果が出た。ヴィクトル・ユゴー、岡本太郎、竹下登、五社英雄、川内康範、山下洋輔、日高敏隆、桑田佳祐、三浦知良、山崎樹範、土田よしこ、多岐川裕美、加賀美早紀、藤本美貴、クリスタル・ケイ、篠崎愛、etc.…うーむ、なんともコメントのしようがない!)