ここまでの経緯はこちら👇
母は昔から、多くの事を語らなかった。
いつも人の心配ばかりして
自分の話はあまりしなかったけれど
そんな中でも伝えて続けてきたのは
自身が離婚し、私達3人兄妹に
不憫な思いをさせてしまってごめんね
という私達に申し訳なく思う気持ち。
抗がん剤治療を続け、効果が出ず
最後となった検査の後に口にしたのは
皆がいたから、幸せだった
この先も、兄妹3人 仲良くね
(それぞれの家族含め)
という少ない言葉だった。
このとき母はきっと
自分の命があと僅かだと悟ったのだと思う。
結果としてこの言葉は
母の遺言となった。
そして母は、彼に対して
こゆきのこの先を
もっと見ていたかった
こゆきを宜しくお願いします
と言った。
彼は、母の無念や祈るような想いを聞き
それが心に刺さったという。
そしてもうひとつ、
私の知らぬ間に兄に託したのは
自分の身に何があろうと、
こゆきの結婚式は絶対に
予定通りやってほしい
ということだった。
母の葬儀をとおして、
多くの母の友人や知人と面会する機会があった。
母を知る人達が、私達3人に向かって
それぞれに皆同じ事を言った。
"お母さん、いつもあなた達の事を話していましたよ"
"旅行や食事に、連れ出してくれるとか
孫のこんなところが可愛いとか
末の娘が結婚することになったとか
いつも嬉しそうに、誇らしげに、話してくれました"
兄の事、姉の事、孫の話
家族皆で過ごした何気ない日々のこと‥
そのすべてを、
母は嬉しそうに周囲に話していたようだった。
そして、特に親しい友人には度々
"こんな親なのに、子供たちが立派に育ってくれて、本当に嬉しい"
こんな事も言っていたらしい。
母が残した、
皆がいたから、幸せだった