魯昭公元年(前541)、叔孫豹晉の趙武・楚の公子圍・齊の國弱・
宋の向戌・衛の齊惡・陳の公子招・蔡の公孫歸生・鄭の罕虎・
許人・曹人に虢に會す。
(春秋左氏伝より)
楚以外のすべての記憶が怪しく、どんな重要人物が
会盟に参加しているか分からないので自分のためにまとめました。
中文版Wikipediaと百度百科を参考にしています。
叔孫豹(?—前538年)
姫姓、叔孫氏。叔孫氏第5代宗主。
名は豹、諡は穆(穆叔・叔孫穆子とも)。
叔孫得臣の子で、叔孫虺と叔孫僑如の弟。
1. 前575年:兄・叔孫僑如が魯成公の母・穆姜と密通し、
季文子や孟献子を追放して財産を奪おうと画策。
しかし失敗し、叔孫僑如は追放。叔孫豹が斉から帰国し、家督を継承
2. 前559年:十三国連合軍として秦を討伐
3. 前549年:晋に出使し、范宣子と「三不朽」について議論
名言:「太上有立德,其次有立功,其次有立言,雖久不廢,此之謂不朽」
4. 前546年:宋で行われた「弭兵の会」に魯代表として参加。
晋の趙武、楚の屈建(子木)らと交渉
5. 前538年:嫡子・孟丙、仲壬が庶子・竪牛に殺害され、
叔孫豹も食糧を絶たれる。同年12月28日(乙卯の日)に死去。
竪牛が叔孫婼を宗主に立てた
趙武(前598年—前541年)
嬴姓、趙氏。名は武、諡は文(趙文子、趙孟とも呼ばれる)。
趙盾の孫、趙朔の子で、母は晋成公の姉である趙荘姫。
1. 若年期
1. 《史記》の記述(趙氏孤児の伝説)
・前597年:趙盾の死後、趙氏一族は屠岸賈の陰謀により滅ぼされる。
趙武は生まれる前に父を失うが、母・趙荘姫が匿い、
程嬰と公孫杵臼が命を懸けて守り抜いた
・十五年後、晋景公が病に倒れ、韓厥の助言で趙氏孤児の存在を知る。
趙武を呼び戻し、屠岸賈を討伐して趙氏を再興
2. 《左伝》の記述
・趙武の母・趙荘姫が趙同・趙括を謀反の罪で失脚させ、
韓厥の推薦で趙武が趙氏を継ぐ。
趙氏孤児伝説にある屠岸賈や程嬰・公孫杵臼の話は登場しない
2. 趙氏復興後の活躍
1. 趙氏の再興
・趙武が成人後、程嬰は自ら命を絶ち、
趙武は喪に服しつつ趙氏の祖先を祀る(《史記》)
2. 晋政界での台頭
・趙武のもとで趙氏は力を取り戻し、晋の重要な大夫となる
・趙武は晋平公時代の重臣として活躍し、正卿に任じられる
・前546年:第二次弭兵会盟を主催
楚の令尹子木や宋の向戌らと盟約を結び、
晋・楚間の一時的和平を成立させる。
この会盟で「晋楚の従属国が互いに貢ぎ物をする」規定を定めた
3. 死去
・前541年:死去。諡は「文」とされる。子の趙成(趙景叔)が後を継ぐ
趙武は、趙氏孤児伝説を通じて忠義や復讐の象徴として
語り継がれる人物だが、《左伝》の記述では母・趙荘姫の陰謀が
強調され、伝説との齟齬が大きい。
政治家としては第二次弭兵会盟を成功させた功績が特に評価され、
晋国政界での地位を盤石にした。
楚霊王(?—前529年)
芈姓、熊氏。本名は圍(後に虔と改名)。
楚共王の次子であり、兄の楚王郏敖(熊員)を殺害して即位。
即位後の独裁的な統治で最期は反乱によって滅亡。
1. 即位前
・周景王三年(前542年):楚国の宰相(令尹)に任命される
・周景王四年(前541年):兄の楚王郏敖(熊員)を殺害し、
弟の子干、子皙を追放して楚王に即位
2. 治世の主な出来事
・郏敖三年(前542年):令尹として鄭の国境に
犨、櫟、郏の三城を築き、鄭を脅かす
・楚霊王三年(前538年):諸侯を申に招集し、会盟を行う。
同年7月に呉を攻め、8月に慶封一族を滅ぼす
・楚霊王七年(前534年):豪華な宮殿「章華台」を建設し、
多数の美女を選び台に入れる
・楚霊王八年(前533年):棄疾(楚平王)に陳を滅ぼさせる
・楚霊王十年(前531年):蔡侯を宴席で酔わせて殺害。
棄疾(楚平王)に蔡国を平定させ、彼を「陳蔡公」とする
・楚霊王十一年(前530年):徐を討伐して呉を威嚇
3. 逸話
・「細腰」好み:楚霊王は細い腰の臣下を好んだため、
宮中で多くの人が飢え死にしたという逸話がある
(「楚王好細腰,宮中多餓死」)
・晏嬰との対話:楚霊王が斉の晏嬰を低身長だとからかい、
犬用の門を通らせようとした際、晏嬰は
「犬の国に使者として行ったなら犬用の門を通るが、
楚国には相応しくない」と機転で反論
・「橘逾淮為枳」:「淮河を越えれば橘は枳になる」の故事も
晏嬰とのやり取りから生まれた
4. 滅亡
・楚霊王十二年(前529年):弟の子干、子皙、
蔡公棄疾(楚平王)が結託し反乱を起こす。
蔡公棄疾は楚霊王の子供(太子禄、王子罷敵)を殺害。
・楚霊王は大臣申亥の家に逃げ込むが、復権を諦め、
自ら首を吊って自殺。申亥は二人の娘を殉葬させた。
5. その後
・子干が王に即位するも、蔡公棄疾の策略により子干、子皙が自殺。
蔡公棄疾が楚王(平王)として即位。
国弱(?—?)
姜姓、国氏。国景子とも。斉に仕えた。国武子(国佐)の子。
1. 前573年
・父・国佐が斉霊公に対して反乱を起こすも失敗。
大夫・慶克を殺害するが、斉霊公はその夜に衛士・華免を派遣して
宮中で国佐を戈で殺害。さらに、国弱の兄・国勝も
清地の人々によって殺された
・国弱は魯に亡命
2. 帰国後
・その後、斉霊公の命により帰国を許され、国氏一族を継承
3. 外交活動
・前542年から前532年にかけて、複数回にわたり斉の代表として
諸侯国への使節や会盟に参加
向戌(?—?)
子姓、向氏。春秋時代の宋の左師(高位の官職)。
第二次弭兵会盟を成功に導いたことで知られる。
1. 背景と初期活動
・宋平公時代に左師として活躍
・前564年:宋で火災が発生。右師の華閲と共に対応に当たる
2. 内部抗争
・前556年:右師の華閲が死去。その息子・華皋比が宗主となるが、
華閲の弟・華臣が反発し、家宰・華呉を暗殺。
この際、向戌は襲撃に巻き込まれ恐怖するも、
華臣を擁護し罪を問わないよう宋平公に進言
・その後、向戌は華臣を恐れるようになり、
華臣の家の前を通るたびに馬車を急がせて逃げるほどだった
3. 太子痤事件
・前547年:宋の宦官・恵牆伊戻が太子痤を陥れ、向戌もそれを黙認。
太子痤は無実の罪で自殺させられる
・その後、真相が明るみに出て恵牆伊戻は処刑される
4. 第二次弭兵会盟の成功
・背景:晋と楚の覇権争いが続く中、
宋を中心に平和を目指す動きが強まる
・前547年—前546年:向戌が晋の趙文子(趙武)、
楚の子木(屈建)を説得し、宋で会盟を開催。
晋が盟主の地位を楚に譲歩したことで会議は成功し、
晋楚の和平が成立。この和平は数十年間維持され、
中原諸国に安定をもたらした
5. 功績と評価
・弭兵会盟の成功後、封邑(領地)の賞賜を求めたが、
大臣・子罕から「兵を完全に廃止するのは危険」と指摘され、
向戌自身もその意見を認めて封邑要求を撤回。
『左伝』では「過ちを認めることができた人物」として評価されている
逸話
・華臣への恐怖:華臣が怖すぎて、馬車を全力で走らせて逃げる
・太子痤事件の皮肉:太子の無実を知りながら
見て見ぬふりをした結果、後に混乱を招いた。
・礼物エピソード:「国君夫人」から贈り物をもらった際、
「(元)侍妾」ではなく「夫人」からだと言い直させる
公子招(?—?)
嬀姓、陳氏。名は招。春秋時代の陳の公子で、陳成公の息子。
1. 虢の会盟
・前541年:晋の趙武、楚の王子囲、斉の国弱、宋の向戌、魯の叔孫豹、
衛の斉悪、蔡の公孫帰生、鄭の罕虎などと共に虢で会盟に参加
2. 陳国の内乱
・前534年:公子招と公子過が太子偃師と陳哀公を殺害し、
公子留を擁立して陳の君主とする
・楚に使者(干征師)を送り知らせるが、
公子勝が楚霊王に訴え、楚霊王は干征師を殺害
3. 楚の討伐と陳の滅亡
・楚霊王が陳を討伐。公子招は公子過に罪を押し付けて殺害
・しかし最終的に楚霊王により陳は滅ぼされ、公子招は越に追放される
公子招は陳の内乱と滅亡に深く関与した人物で、
兄弟間の争いや楚の介入などが複雑に絡み合う歴史を象徴する存在。
公孫帰生(?—?)
姫姓、蔡氏。別名は声子。蔡文侯の孫で、公子朝の子。
1. 伍挙との友情と楚への助言
・楚国の大夫・伍挙と友好関係を築く
・前547年:晋への使者として出向いた後、再び楚に出使
楚令尹・屈建に対し、晋が伍挙を重用する可能性を分析し、
これが楚に不利であると進言。析公、雍子、苗賁皇といった例を挙げ、
楚国の人材が晋で活躍している事実を指摘
・屈建が楚康王に報告し、楚康王は伍挙の禄爵を増やし、彼を帰国させる
2. 弭兵会盟
・前546年:宋で開催された弭兵会盟に参加。
蔡の代表として晋の趙武、楚の屈建、宋の向戌、魯の叔孫豹、
衛の石悪、鄭の良霄、斉の慶封、陳の須無らと盟約を結ぶ
3. 虢の会盟
・前541年:宋での盟会の友好を再確認するため、虢地で再び会盟。
楚の王子囲、魯の叔孫豹、晋の趙武、斉の国弱、宋の向戌、
陳の公子招、鄭の罕虎、許人、曹人などと会見
公孫帰生は、蔡国の外交を担い、晋楚間の対立において
重要な役割を果たした人物。伍挙の帰国を助け、弭兵会盟や虢の会盟にも
関与した点で、春秋時代の国際政治に影響を与えた。
罕虎(?—前529年)
姫姓、罕氏(七穆の一つ)。名は虎、字は子皮。
鄭の当国(六卿の一つ)。鄭穆公の曾孫、公子喜の孫、公孫舍之の子。
1. 当国としての活動
・前544年:父・子展(公孫舍之)の後を継ぎ、当国正卿に就任。
駟氏と連携し、良氏の良霄を滅ぼす
・同年、鄭で発生した飢饉の際、国民に穀物を配給し、信頼を得る
・前543年:子産を招聘し、自らは政務の表舞台を退き、
子産を補佐しながら政務を執行
2. 外交と評価
・前537年:斉を訪れ、子尾氏(斉の名家)の娘を妻に迎える。
この際、晏嬰(斉の政治家)と幾度も面会
→陳桓子が「なぜ晏嬰は何度も罕虎に会うのか」と問うと、
晏嬰は「彼は有能な人物(子産)を任用できる。百姓の主人だ」と答えた
3. 死去
・前529年:罕虎が死去。長年の同僚である子産が深く嘆き、悲しんだ
罕虎は、子産を信任して鄭の政治を安定させた賢臣として知られる。
自ら権力の座に固執せず、有能な人物を登用する姿勢は晏嬰にも
高く評価され、鄭の民からも慕われた。彼の死が
子産を大いに悲しませたことからも、両者の絆の深さがうかがえる。