安徽大学藏戦国竹簡(安大簡)の楚世系について | 呉下の凡愚の住処

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安徽大学蔵の戦国竹簡、安大簡の研究が読みたかったのですが
日本語の論文が見付からなかったので、大変勝手ながら
黄德宽先生の
《安徽大学藏战国竹简概述》という論文を
一部、翻訳させていただきました……。
初出は《文物》の2017年第9期第54-59ページのようですが
現在はネット上で読めています。
個人で勝手に訳したものです。申し訳ありません……。



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楚の初期の歴史・伝説に関する記述は伝世文献同士が矛盾しており、
はっきりしていない。
《史記》楚世家の記述では楚の先祖は帝顓頊であり、顓頊は称を生み、
称は巻章を生み、巻章が重黎と呉回を生み、
呉回が陸終を生み、陸終は6人の子を生んだという。
“六曰季連、羋姓、楚其後也”
“季連生附沮,附沮生穴熊。其後中微,或在中国,或在蛮夷,弗能紀其世”
“周文王之時,季連之苗裔曰鬻熊。鬻熊子事文王,蚤卒。其子曰熊麗”
楚世家の“巻章”が“老童”であることは過去の研究で指摘されている*1
“重黎、呉回”は二人、もしくは四人とも考えられ、見解が異なる。
“穴熊”から“鬻熊”までの間は、司馬遷は“弗能紀其世”と言う。

*1:《史記》楚世家の注に引く裴駰《集解》に
 “譙周曰「老童即巻章」”とある


近年の新たな楚簡資料において、
楚人が先祖を祀る際の組み合わせとして
“老童、祝融、穴熊”と“老童、祝融、毓 (鬻) 熊”の2種類が現れ、
さらに“三楚先”という略称も現れた*2

*2:黄德宽《新蔡葛陵楚简所见“穴熊”及相关问题》、《古籍研究》
2005年巻下、安徽大学出版社、2005年。


安大簡の楚史類文献材料第一グループの最初の整理結果によると、
楚の初期の世系では、帝顓頊が生んだ老童が楚の祖先であった。
安大簡では以下のようになっている。
老童は重、黎、呉、韋(回)を生んだ。
黎氏とは祝融であり、祝融には6人の子があった。
その第六子は季連といい、荊人である。
“融乃使人下請季連,求之弗得。見人在穴中,問之不言,以火爨其穴,乃惧,告曰:酓(熊)。”使人告融,“融曰:是穴之熊也。乃遂名之曰穴酓(熊),是為荊王”
穴熊は熊鹿(麗)を生み、穴熊が死ぬと熊鹿(麗)が即位した。

簡本は楚の祖先の由来や世系の記述が非常に明確で、
楚世家などの伝世文献とは6点の違いがある。
1:老童は顓頊の子であり、称の子ではない。
老童の4人の子供は“重及黎、呉及韋 (回) ”であり、
簡本がこのように“及”を二回使っているのは、
明らかに4人を2人と誤ることを防ぐためである。
2:黎氏とは祝融であり、重や呉や回ではない。
3:陸終という人物はおらず、6人の子を生んだ者は祝融黎であり、
文献の陸終は祝融の誤りだと思われる。
4:季連こそが穴熊であり、
簡本では穴熊の名前の由来が説明されている。
5:附沮という一世代が存在しない。
6:穴熊が熊麗を生み、その間に世系の中断はない。
これは楚世家の鬻熊が穴熊であったことをも証明している。

以上、簡本の大要について、楚世家との初歩的な比較を行った。
簡本は楚の初期の伝説・歴史に対して整理と統合を行っており、
記述は精確で筋道立っていることが分かった。
《史記》の楚の祖先に関する歴史記録には矛盾や不明点があるが、
簡本はすべて明確に説明してくれている。

老童は顓頊から生まれて楚の始祖となった。
老童が祝融を生み、祝融が季連を生み、季連は穴熊である。
彼らが楚人の直接の祖先であるため、楚簡に
「老童、祝融、穴(鬻)熊」という3人の祖先を祀る
組み合わせが現れたのであろう。
“三楚先”は間違いなくこの組み合わせの略称である。
長い間学者を悩ませていた問題は、
簡本の楚史の記述によって自然と解決された。
安大簡楚史と他の楚簡との
楚の祖先の世系についての記述が一致しているのは、
戦国時代の楚人が既に統一した見解を
作り上げていたということである。

したがって、安大簡楚史は楚国の官修史書の一つという可能性がある。 



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研究者の方はとっくに読んでらっしゃると思いますし、
完全な自分用です。
楚簡の研究は、現在Wikipediaのように気軽にアクセスできる
日本語のサイトには情報がなく(中国にはある)、大変残念ですし、
自分も毎回中国のサイトで確認するのは面倒なので、
こうして自分の島に少しずつ情報を残していきたいと思います。