粛意尚軽蒙 | 呉下の凡愚の住処

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春秋戦国の楚国、三国志の孫呉にすべてを捧げて生きています。
現在はあまり更新していませんが、
何も持っていなかった過去の自分が想定読者でした。
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私は魯子敬先生が大好きです。
中国史史上弟子入りしたい人物ナンバーワンです。
彼の家に住み込みで働きたいと日夜思っています。 <不要な発言
このブログにも、開設当初は魯粛先生のことをたくさん書いてました。

【三国志】カテゴリが魯粛先生の記事ばかりでお恥ずかしいです。
昔は今よりはるかに漢文も中文も読めなかったので
記事の内容は悲惨なことになってるでしょうが(痛すぎて直視できない)、
愛と恥さらしのためにも残してます。
「こいつどんだけ魯粛好きなんだYO(笑)」って笑ってやってください。

「三国志最強の軍師は誰だ!」みたいな企画がよくありますが、
孫呉では魯横江様がダントツで最強だと思います。 ※超個人的意見
お亡くなりになった後も化けて出るし……


という前置きはさておき。 <すごく好きだということを言いたかった
魯横江様が呂蒙を「非復呉下阿蒙」と評した話は
このブログをご覧になってくださっている方ならきっとご存知かと思うのですが……
(知らなくても大丈夫!
 Wikipediaの呂蒙の項目 に書いてあるのでぜひ読んでみてくださいね!)

『三国志』の本文中に「魯粛は呂蒙を軽視していた」
と書いてあることは意外と知られていないと思います。

『三国志』呉書巻九・呂蒙伝に
魯肅代周瑜,當之陸口,過蒙屯下。肅意尚輕蒙,或說肅曰:「(中略)」遂往詣蒙。
とあるのがそれです。(黒字部分)

魯粛は周瑜の死後、その任を引き継いで陸口に向かうことになりますが
途中で呂蒙の軍営あたり(尋陽?)を通りかかったそうです。
魯粛は呂蒙を軽視していたのですが、とある人が
「呂将軍は日ごとに只者ではなくなっているのでお会いするべきです(意訳)」
と薦めたので、会いに行くことになりました。 という話です。

“意尚”は「~と慮る、~という志向」って意味らしい。
“輕”は「軽視、不重視」の意でよいかと。

この文、ちくま三国志では
「魯粛は心中でなお呂蒙を軽蔑していた」
という萌訳になっています。

本文ではたった五文字しかないこの文ですが、
私はここに魯粛先生の性格がにじみ出ていると思います。
人を容赦なく軽んじる人間なのだろうと!!
萌えるというか、燃えますね。

魯粛伝の記述でも魯粛先生はお世辞にも優しそうな人間には見えず、
腹の底で何を考えているか分からない雰囲気です。
とある人さん(←かなりうらやましい人物)が薦めなければ
呂蒙の軍営も素通りしようとしてたんだろうなーと思うと
興奮で夜も眠れません。

ロマンですね……
私も軽蔑されたいです。 <既にされてると思う




えーと、『三国志』の該当箇所の主張はそこではなくて
「軽視されていた相手をもうならせる呂蒙ってすげー!」ってことなんですよね……
魯粛が呂蒙を「軽視」するのは魯粛がヤクザだからとかそういうことではなく、
寒門出身の呂蒙は、魯粛のような知識人層からは
軽視されていて当たり前な時代だからです。
そんな時代に知識人から認められる呂蒙ってすごいよね!?
そんな時代に寒門出身の人間を高評価する魯粛もすごくね!? ってことなんです。

たとえばこれ、評価したのが陳武とかだったら同僚が同僚を褒めただけで、
そこまでの美談にはならないわけです(陳武ごめん)。
陳武に「呉下の阿蒙に非ず!」とか言われても
呂蒙「ありがとう!」
で終わってたと思いますよ……(陳武ごめん)。
魯横江様が呂蒙殿に会いに行ってくれてよかった!

……という大事な部分を省略すると多方面からお叱りの言葉がありそうなので
一応書いておきました。