先日、張震という人物のことを教えていただいたので
忘れないように記事にしておきます。
Wikipediaで充分なんじゃないかと思いますが自分のために書きます。
張震 (孫呉) - Wikipedia
ちなみに百度に彼の項目はなかった……
以下、読めば分かっていただけると思うのですが意訳が甚だしいです。
■張震は張承(字:仲嗣)の息子
年六十七,赤烏七年卒,諡曰定侯。子震嗣。
※赤烏七年=244年
(張承は歳67で赤烏七年に卒し、定侯と諡された)
張承の死後、子の震が後を継いだ。
震諸葛恪誅時亦死。
張震は諸葛恪の誅殺と時を同じくして死亡。
※『三国志』呉書巻七・張承伝
■諸葛恪の外甥
初,承喪妻,昭欲為索諸葛瑾女,承以相與有好,難之,權聞而勸焉,遂為壻。
張昭は妻を喪った張承のために、諸葛瑾の娘を娶わせようとした。
諸葛瑾と仲良しな張承は「それはちょっと……」と思ったが、
話を聞いた孫権が婚姻を勧めたため、張承はついに諸葛瑾の娘婿になった。
(注)臣松之案:承與諸葛瑾同以赤烏中卒,計承年小瑾四歲耳。
裴松之の考え:張承(178年~244年)と諸葛瑾(174年~241年)は
二人とも赤烏年間に亡くなっており、計算してみるに二人の年齢差は4歳だけである。
*『三国志』呉書巻七・張承伝
むかし作ったしょうもない図が使えそうだったので改変しました。
■都郷侯張震
後為濡須都督、奮威將軍,封都鄉侯
張承は濡須の都督、奮威将軍になり、都郷侯に封ぜられた。
恪外甥都鄉侯張震及常侍朱恩等,皆夷三族。
(諸葛恪が誅殺されたとき)
諸葛恪の外甥で都郷侯の張震、常侍の朱恩らも三族皆殺しとなった。
*『三国志』呉書巻七・張承伝、呉書巻十九・諸葛恪伝
父の爵位を継いだんですかねえ。
張闓字敬緒,丹楊人,吳輔吳將軍昭之曾孫也。
張闓(字は敬緒)は丹陽の出身で、呉の輔呉将軍張昭の曾孫である。
*『晋書』列伝第四十六・張闓伝
Wikipediaにも書いてありますが、張闓の父も祖父も分からないのです。
出身地の丹陽というと、張承も張休も滞在可能性がありそうな感じ。
張承は濡須都督だし。でも、そもそも張闓の祖父自体が
史書に載ってないかもしれないのでなんとも言えないですよね。
張昭にも案外、鍾繇みたいに晩年になって生んだ子がいたかもしれないし。
(都合のいい妄想)
ここで「張闓は張震の子です!」とか証明できたら素敵なオチがついたんですが、
張震の記述は少なすぎて……張昭の孫なのにと思うとこの扱いは悲しい。
張闓のいいところは虞翻の孫とか顧雍一族の子孫の方々と
キャッキャウフフしてるところだと思います。
でも『晋書』を読み始めると自分のやりたいこととは違う世界に
行ってしまうので終わりにしておきます。
■どうでもいい後書き
張震といえば『レッドクリフ』で孫権を演じた方と同姓同名です。
百度に「張震」を調べに行ったらこの役者さんの写真が
たくさん見られて眼福でした。美男ですね。(某韓ドラ)
参考:中央研究院 漢籍電子文献
