魯粛の交友関係・巻二 | 呉下の凡愚の住処

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いつぞやの魯粛記事の続きです。
こういう好き勝手なことをやってると頭痛を忘れられるので……(笑)


(←過去記事)この場面なんですけどね。
この呂蒙さん、魯粛さんに半ギレしてるようにしか見えないのですわ……
っていうのは妄想かもしれませんが!
この痛い妄想を以下に一つ一つ説明します。



これ、211年前後のできごとなんじゃないかなーとおもうのですが、
魯粛は既に孫権に「劉備を討ってはならない」と進言しているので、
親劉備派*であることは呂蒙の目にも明らかだったのでしょうね。


対する呂蒙はこんなに早くから関羽対策とか立てているので、
おそらく劉備に対してもよい考えは持っていなかったでしょう。
なので、劉備にやさしい魯粛の意見はうざくて仕方なかったのではないかなーと。



個人的にずーっとずーっと引っかかっているのは
「あなたが今ここで論ぜられたことは
 どうしていちいち秦の穣公(魏冄)の主張と一致するのか」

っていう呂蒙さんの言葉でですね。
もう私、この穣公のために史記を読み始めたと言っても過言ではないです。


で、この穣公に対する評価、人によってけっこう異なるのですね。
穣公は范雎の進言によって失脚させられるのですが、
このとき范雎は「穣公は秦のためにならない」という意味のことを言っており、
范雎列伝において穣公はかなりの悪人のように書かれています。


それに対し、史記をまとめた司馬遷自身は穣公を高く評価しているようです。
列伝の12巻目に穣公列伝が立てられていることからも、
その評価の高さがうかがえます。
あの白起を登用したのも穣公ですからね。
穣公はただ私服を肥やしただけの悪人ではないとおもいます。



ここでおもったのは、呂蒙さんは穣公嫌いで、
穣公に対しては范雎寄りの考えを持っていたのではないか?
ということ。

もしも呂蒙さんが范雎支持者なのだとしたら、
この「どうしていちいち穣公の主張(略)」ということばは
深読みすれば「あなたの主張は孫呉のためにならない」
となるのではないかと。もはや完全に妄想ですが。



何しろそのあとに続く呂蒙のことばがひどすぎる……


「あなたは今、(周)公瑾殿の後任にあたることになられましたが、
 あとを継ぐのは困難でありますうえに、あの関羽と隣接なさるのです」


とか、もうね、「お前には無理」って言ってるようにしか見えない……
ただの忠告にしては言いすぎな気がするんですよね。うんうん。
立場は魯粛のが上なはずなのに、なんという罵詈雑言の数々……
って“罵詈雑言”は言いすぎかもしれませんが! ね!


だから、このあと「魯粛は呂蒙と友誼を結んで別れた」
と書かれてても、それって魯粛さんの一方的な好意なんじゃね?
とかおもってしまうわけです(笑)



でもね、魯粛もいけないとおもうよ……
劉備に対する考えかた云々以前に、
呂蒙の質問に対して深く考えず適当に返してたっていうじゃないですか(笑)
たぶんその態度が相当ひどかったんじゃないかなあ……
それで呂蒙さんもついつい頭にきて言いすぎちゃったんじゃないかなあ。


「人は三日で変わります!」とか、
案外相手が魯粛じゃなかったら言ってなかったかもしれん。
相手が孫権だったりしたら、三日と言わず、
若干遠慮して「一月」くらいだったかもしれないよね。
と、たまにおもいます。いや誰が相手でも三日と言っててほしいですが。



もういろいろ妄想しすぎですが……
今日は頭も痛いので好き勝手書かせていただきました!
あ、このテーマの記事はまだ続きます。



*親劉備派

個人的には親劉備派という言い方がどうにも引っかかります。
あの人三国鼎立のために劉備を利用しようとしていただけにしか見えない……


親劉備、とか言われてはいるけど、
単刀赴会で関羽を責めたときの言葉には親劉備のかけらも感じられないので。
ただその割には自分の後継者を指名していない(と思われる)し、
心の奥底では何を考えていたのかがすごく気になります……