7月26日(金)☀️ 7867歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。そうめん。
買い物はなし。10時出勤、午後6時30分退勤。

朝は6時前に起きた。昨日の飲み会の影響で眠い。ささっとご飯を食べた。散歩はハナから諦めている。新聞を取りに行き、ベランダで読んだ。コーヒー、アイスもしっかり食べた。8時半になり、部屋でブログの執筆。またぎりぎりである。9時半すぎに書き終わり、支度を始め会社に行った。

10時から仕事。今日もやることが多い。今週中にやってうけておきたいことがあり、そちらに取りかかった。同時平行で二つ三つ仕事をこなした。昼になり、いったん食事に家に帰る。で、また仕事。週末なので結構気合いが入ったが、体はひとつしかない。一番やっつけたいことは、なんとか目処が立った。これで今週もなんとか終われるという気持ちになった。まだ、やっていないことがありすぎるが。6時半になり帰宅。

さっさとご飯を食べ、ちょっと体調も悪かったので、軽く風呂に入って寝た。動画もいくつか見た。明日は久しぶりに約束がある土曜日である。まゆちゃんとご飯を食べにいくことになっている。体調を万全にすることが大事だ。市販の風邪薬をちょっと飲んで、寝た。ではコラムを。

■思考のハギレ(888) 「えらい目」の当番が割り振られる話

芥川龍之介の言葉に、「我々人間の生活は、阿呆と悪党を除き、いつも暗澹としているはずである」とある。つまり、阿呆と悪党でない限り、我々人間はいつも暗澹としたものになるという断言である。たしかにこの世は暗澹としたものだ。苦しみ、悲しみが次から次へとやってきて、順番待ちをしている状態である。楽しいことは、あっという間に過ぎ去り、しばらくやってこない。いったいどうなっているのだろうか。

田辺聖子さんのエッセイにこんな話があった。我々人間は、生まれたときから、神サマとか閻魔サマと言われるような超越者に、天から睨まれているのだそうだ。そしてその超越者は、「えらい目」に遭わせる当番を決めているのである。「生き別れ当番」「死に別れ当番」「姑にいじめられ当番」「子供が病気当番」などの当番札を人間の首に下げていく。さしずめ小生は、「身体障害者当番」の札を掛けられたのだろう。

誰だって、何かの「当番札」を首に下げているのである。自分を今苦しめているこの札を返上したところで、すぐに別の「当番」が割り当てられるのは、火を見るより明らかである。小生のこの目の病気という「身体障害当番札」は、返上できる見込みがない。しかし、それはそれで、この札を掛けている限り、別の当番からは逃げることができそうである。「自分はこの当番で手一杯なので、もうこれ以上別の当番は勘弁です」と逃げまくればいい。

この目の病気だって、実は、慣れてしまえばたいしたことはない。車に乗れないのだって、覚悟してしまえばいい。車がなくたって、歩いたり、走ったり、いろんな手段は使える。要するに、「うまくやっていく」ことが重要だ。昔、信販会社のジャックスのCMに、「人間は雨を止めることはできない。しかし、雨とうまくやっていくことはできる」という台詞があったのを覚えている。自分の「当番」からは逃れられないが、うまくやっていくことを覚えると、暗澹とした人生も、少しは明かりが差してくる。