7月15日(月・祝)☂️ 0(!)歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。ご飯。
買い物はなし。外出もなし。

朝は6時に起きた。ご飯を食べ、新聞を取りに行って、ベランダで読んでいた。今日はたいした雨ではなく、散歩もできそうだったが、サボった。やることがいっぱいあったので。コーヒーとアイスを食べながら、新聞を読んだ。

その後はずっとクイズ本を読んでいた。昨日も読んでいたが、今日も半分読んで、2日で1冊読み終わってしまった。ハイペースである。昼になり昼飯を作って食べる。午後もまた読書。午後はまず、溜まっていたブログを1つ書き上げた。その後、源氏物語を読んだ。最近頑張って読んでいるのである。上中下巻に別れているうち、上巻の半分ほど読んだ。その後サボっていたブログをちょっと書き上げ、夕方になった。夕飯を早めに食べ、風呂に入り、あとは寝るだけ。でも寝る前にも源氏物語を読んだ。

11時ころになりさすがに寝た。。では、コラムを。

■思考のハギレ(876) 押し付けられたものを受けとる人生

「天は人の上に人を作らず」とは福沢諭吉の言であるが、よく言ったものだと思う。というのは、現実はまるで違うと感じるからである。人間の能力とか、才能とか、美醜、家柄、器量、どれ一つとっても、みんな横並びなものはない。厳然として序列がつけられる。まさにこの世は序列社会であって、諭吉の時代もそうだったに違いない。「天は…」の言葉は、気休めにすぎないのかもしれない。

そんな序列社会であっても、我々は生きていくしかない。小生などは、生まれつき視力が弱くて、右目に至っては失明状態で生まれてきた。いわゆる身体障害児だったわけである。どうして五体満足に生んでくれなかったのかと母親を責めたこともあったが、よく考えてみれば、母親だって障害のある子を産もうと思うはずがない。誰を恨んでも仕方がないことだと気づく。

中島敦の「山月記」の中に、こんな台詞が出てくる。「理由も分からずに押し付けられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きて行くのが我々生き物のさだめだ」。そこを読んだ瞬間、「ああ、これが生き物のさだめなんだな」と少し合点がいった記憶がある。天は人の上に人も作る。人の下に人も作る。そして、その境遇をおとなしく受け取って生きて行くのが、生き物のさだめである、と。

「山月記」の主人公・李徴は理由も分からず虎になってしまった。それに比べたら、片目が見えないくらい、なんてことはない。少し器量が劣るくらいは、かわいいものである。他人の容姿や器量をうらやむ暇があったら、力の限り生きることを考えたい。松山千春さんも歌っている。「生きることが辛いとか 苦しいだとか言う前に 野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ」。