6月9日(日)🌥️ 6167歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯は弁当。海浜清掃をしてタダでもらった。
晩飯も弁当。余ったので昼の弁当をもらって食べた。
買い物は西武で。今週の買い物は木曜に西武で3446円、土曜にスギ薬局で3014円、日曜に西武で3000円。合計9460円。

朝は1時に起きた。風呂に入り、ご飯を炊き、ご飯を食べ、ブログはサボった。今日は海浜清掃がある日なので二度寝はできなかった。5時すぎに支度をして出発。6時に会社前でバスに乗り込んだ。8時に目的地の美浜町の海岸に着いた。さっそく清掃の開始。プラスチックのかけらなどを拾って、2時間近く作業をした。暑くもなく、雨も降らず、いいコンディションだったと思う。

終了後は関西電力のPRセンターに行って見学。これをしないと弁当が食べられない。何度も見学しているが、弁当を食べるために仕方なく参加する。これも仕事のうちである。終わって12時くらい。バスに乗り込んで弁当をもらって食べた。帰りは比較的早く自宅に着いた。1時すぎである。そこから新聞を読み、本を読んだ。ベランダで。風が強く、新聞は読みづらい。本もあまり集中できず、さっさと切り上げた。そこから西武に買い物に行って、食材を買ってきた。ちょっと料理も作った。

夕方は、昼、余った弁当をもらったのを食べた。同じ弁当を続けて食べるのはまったく苦にならないタイプである。食べたら風呂に入り、サボっていたブログを1本書いたら眠くなったので、寝てしまった。まだ7時で、外は若干明るかった。

年よりみたいな生活になっているけど、それは仕方がない。ではコラムを。

■思考のハギレ(840) 「嫌い」よりも「好き」を発信していく

嫌いなもの、嫌いな人のことを、はっきり「嫌い」と公言する人が多くなったと感じる。「あの人嫌い」とか、「あの店は嫌い」「あの番組嫌い」などなど。自分の主張を明確にするという点では欧米的になってきたのかもしれないが、小生は、「嫌い」という言葉は使わないほうがいいのではないかと思う。「嫌い」という言葉が「嫌い」なのである。

人間だから、どうしても好き嫌いができてしまう。それは仕方がないことだろう。しかし、「嫌い」なことがあっても、あえて口にしなくてもいいのではないかと思う。「あの人苦手」とか、「あの人はどうも好きになれない」くらいの表現にとどめることはできないものかと思う。というのは、「嫌い」という言葉には、「あんな人は嫌われて当然」というニュアンスが籠るからだ。自分が裁判官になってしまっている。

しかし実際は、「嫌われて当然」なんて判断を自分が正しく下せるわけがない。まだ、自分だけがその人の「良さ」に気づいたいないだけかもしれない。少し他人の言動を見聞きしたくらいで「嫌われて当然」と判断するのは、その人のほうが膨満と言われても仕方がない。だから、「苦手」とか、「好きになれない」くらいの表現のほうがしっくりくるのである。

「嫌い」なものを「嫌い」と公言したところで、まったくメリットがない。それはその「良さ」をいまだ発見できていないと、自分の落ち度を公言するようなものでもある。それよりも、「好き」なことを積極的に「好き」と公言していこう。その方が自分には鑑賞眼がある、というPRにもなるだろう。作家の村上春樹さんも言っている。「嫌いなものを嫌いだと大声で公言するよりは、好きなものをじっくり賞賛する方が、お互い何かと気持ちよい」。その通りだと思う。