4月23日(火)☂️☁️ 4460歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。冷やし中華。
買い物はなし。10時出勤、6時45分退勤。

朝は1時に起きた。風呂に入り、ご飯を炊き、ご飯を食べ、ブログを書いて、また寝た。起きたら7時。外は雨の音がする。窓を開けて見てみると、やっぱりひどい雨だ。今日はランニングも散歩も休みにした。もうちょっと寝るという選択肢もあったが、起きる時間は毎日一緒にしておかないとリズムが崩れると思ってやめた。運動をしない日は時間があるので、かわりに料理を作ることにした。味噌汁を作り、土曜日にサボったひじきの煮物も作った。ひじきは煮ながら新聞を読んだ。するとなんだかんだ、時間がなくなった。煮物はできたが、新聞を最後まで読めなかった。ちょっと起きてからボーッとしている時間が長すぎたかな。

10時から仕事。いつも通りこなした。11時から役員会である。ちゃかちゃかと議事録を打って、12時には終わった。自宅に戻りご飯を食べ、また出社。今度は1時半から引っ越しの会議があった。さらに2時からは衛生委員会があった。てんてこまいの一日である。

明日は引っ越し業者が見積もりを取りに来る。明日も忙しいだろうな。とりあえず、今日のいつもの仕事をこなした。火曜日は特に忙しいので、6時になってもまだ帰れなかった。ようやく机の上の書類を全部処理したら6時40分を過ぎていた。いそいで帰る準備をして退社。

帰宅後はご飯を作って食べ、あとは風呂に入った。気温がだんだん上がってきたので、風呂に入らずに布団に入るのがだんだんためらわれるようになってきた。いつまでこの生活を続けられるのか。そういえば毎日日記を書いているので、去年の今頃どうだったかと調べることができる。でも、めんどうなのでやっていないけど。でも、本気で調べようと思えば調べられるというのはいいことだ。日記を書くメリットの一つと言える。今日は特に見たい動画もなかったので、ほどなくして睡眠に入った。ではコラムを。

■思考のハギレ(793) 他人の嘲りなど気にする必要はない

山を歩いていると、キツツキが木をつつく音を聞くことがある。あの音を聞いているといつも、ご苦労さんだな、と思う。他の鳥は、スイーッ空を飛んで獲物を捕まえるのに、キツツキだけは1匹の虫を捕まえるために、時には何時間も木をつつくのである。おそらくキツツキは飛んで狩りをするのが苦手なのだろう。でも、背に腹は代えられぬということで、不格好だろうが何だろうが、せっせと木をつつくしかない。

この姿勢は、人間も見習うところが大いにあると考える。何か事をなそうと思っても、他人の目が気になってできないということが多々あるからだ。吉田兼好の徒然草にはこうある。「一事を必ずなさんと思わば、他のことの破れるをもいたむべからず。人の嘲りをも恥ずべからず」と。たしかにおっしゃる通りである。他人の嘲笑を気にしているようでは、何事も最後まで完遂することはできない。

人間は、何かをやろうとした時、スマートに、エレガントに、格好よくやろうと思ってしまう。汗にまみれたり、泥にまみれたり、七転八倒なんていうのは格好悪いのでやりたくない。こんな恥ずかしい思いをするくらいならやめてやる、と簡単に投げ出してしまうのである。投げ出していいものなら別に投げ出しても構わない。しかし、生きていくのにどうしても必要となれば、形振りなんて構っていられない。キツツキがそうであるように。

色川武大さんの「うらおもて人生録」にこう書かれている。「人間は、結局、ここだけは死んでもゆずれないぞ、という線を守って生きていくしかないんだ」と。その、「ここだけはゆずれないぞ」という線が見つかれば、それが軸となり、そこからの人生に威力が出てくる。「ここだけはゆずれないぞ」という線は、やめたくなったらやめていいものではない。投げ出したら、それこそ「死」を意味するものである。キツツキで言えば、木をつついて虫を捕る行為に当たる。