2月7日(水)☀️ 15737歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。焼きうどん。
買い物は西武で。後日記す。10時出勤、6時退勤。

朝は2時過ぎに起きた。遅め。風呂に入り、ご飯を炊き、ブログを打ち、ご飯を食べてもう一度寝た。起きたら7時。アラームで叩き起こされた。外は霧がかかっている。雨ではなさそう。眠いのでコーヒーを沸かして二、三口だけ飲み、散歩に出た。いつもどおり足羽山動物園まで歩いて帰宅した。

帰宅後、机の上で新聞を読んだ。コーヒーをもう一杯沸かして、アイスと一緒にいただいた。9時半にもう一つのアラームが鳴って、会社に行く準備を開始。10時から仕事。

午前中は1月伝票の最終処理をやった。全部終わった。1日余裕を持って終わったのは気持ちがいい。ところが朝驚きの電話が。午後からのアルバイトの女性がコロナに感染して出れないという。ということでアルバイトの仕事もしなければならなくなった。

昼になり一旦自宅に戻ってご飯を食べた。帰る途中、西武に寄って買い物もしてきた。食べたら急いでまた会社へ。しょうがないのでアルバイトのやっている仕事をすることになった。ちょうどヒマな時期にさしかかっていたのでよかった。夕方は6時になったらさっさと帰宅した。

帰宅後焼きうどんを作って食べ、あとは布団でごろごろしながら動画を見ていた。いつの間にか寝てしまったので、起きて今度は本格的に寝た。いつもとおんなじような一日である。ではコラムを。

■思考のハギレ(718) 一つかみの砂金を得るために人生がある

「何のために生きてるのか解らなくなるよ」と歌ったのは尾崎豊である。しかし同様のことは誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。生きるということは、ただ事ではない。作家の色川武大さんは、「生きる権利なんてものは、ただ法律かなにかに謳っているだけで、原則じゃない。あるように見えて、ないんだよ」と書いているが、まさにその通りである。生きる権利は、自分が生きながらにして獲得していかねばならない。

「生きながらに獲得」と、言葉にすると簡単だが、実際はそんなに簡単ではない。苦労をしなければならない。この世のことを「娑婆」と言うが、あれはサンスクリットの「サハー」から来ている。直訳すると、苦しみの世界ということになる。娑婆イコール苦しみの世界なのである。生きるということは、常に競争である。受験競争、就職競争、出世競争、結婚競争、子育ての競争・・。しんどい思いまでして、なんでわざわざ生きなければならないのという疑問は、誰しも当然出てくるだろう。

朝から晩まで、そして人生の日の出から日暮れまで、バタバタと生きて、バタバタと死んでいく。これが人の一生である。しかも最後はなにも持たずに死んでいくのである。だったら途中で投げ出したって一緒じゃん、という気持ちになるのもわからないでもない。これをどう考えるか。太宰治の言葉が参考になるのではないかと思う。

太宰は、なんのために学問をするのかという質問に対し、「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ」と答えている。この「学問」を「人生」に変えてみてもいいのではないか。バタバタと生きたこの人生の訓練の底に一つかみの砂金がきっと残っているはずである。その砂金を手にするために私たちは生きていると言えるのではないだろうか。