1月20日(金)☁️☂️ 13849歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯を炊く。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。ラーメン。
買い物はなし。出勤10時、退勤6時30分。

朝は0時には起きていた。朝とは言わないかも。で、風呂に入り、飯を食べ、ブログを打った。で、しばし睡眠。起きたら7時半。眠い目を擦りながら支度して、散歩に出た。朝の散歩は気持ちがいい。出るときはあんなにいやだったのに。朝の足羽山は気持ちがいい。特に冬は。散歩してほてった体と、顔に当たる冷たい風の組み合わせは最高である。景色もいいし。

100分歩いて自宅に戻る。もう9時半である。また支度して、会社へ。10時に出社。仕事をしゃかしゃかやる。で、お昼にいったん帰宅。2時間前までいた自宅にまた戻ってくる。ご飯を食べる。また会社へ。ずっとこういう生活が続いているが、まあそれもよしである。自宅がいちばんいい。

午後も仕事。朝の散歩をしながら、あれもしなきゃ、これもしなきゃと思い当たることがいっぱいあるので、それをやるのみである。朝考えて、昼実行する。そんな毎日。それがいいリズムのようである。

6時半に終わって、帰宅。すぐにご飯を食べ、8時のカプリティオの動画更新までなんとか起きて、見たらすぐに寝た。眠くてしょうがない。9時には寝ていた。ではコラムを。

■思考のハギレ(336) あくせくとして、何のために働くのか

人は何のために生きるのか。これは生きている人間の頭上にいつもぶら下がっている永遠のテーマのようである。その解答をいろんな書物に求めてみるのもいいが、何も、ピンポイントで解答を求める必要はない。「おおまかな方向性」のようなものさえ掴んでいればそれでいいと思う。そして、その「おおまかな方向性」とは「世のため、人のため」というのが、一番無難であると思う。

プロ野球の元監督・野村克也さんも著書に書いていた。新人の野球選手にまず講義することは、何のために生きるのか、という話らしい。もちろん、ほとんどの新人選手はぽかんと話を聞くだけである。その野村監督も、「世のため、人のために生きる」と書いていた。

先日、外山滋比古さんの「寸言力」という本を読んでいたら、「世のため人のために働くことをしないのは、自分のためにも働かない」と書いてあった。たしかにそうである。人は、自分の稼ぎを得るために働くと思っても、結局は世のため、人のためになっている。給料がもらえるということは、仕事に対してお金を払う人がいるということ。つまりは、なんらかの価値を生み出しているということで、自分の稼ぎのために働くことは、すなわち世のため人のためになっている。

「なんてことのない作業が この世界を回り回って 何処の誰かも知らない人の 笑い声を作っていく」とミスチルの桜井和寿さんも歌っている。貧乏暇なしで、あくせくと働いていると、「なんのために生きているのか」と嘆きたくもなるが、実はそうしている時がいちばん、人間としての本分を果たしている時なのかもしれない。