12月14日 赤穂浪士討ち入り異聞(その2) | 標葉工房電脳帖

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元禄15年12月14日(1703年1月30日)は、赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入った日でんがな。

                     筆者著作:夢想史くのいち専科より

くのいち「いよ」三春で待ち伏せ

  三春藩の赤穂浪士末裔、、その名は小野寺伊代

橋本捨五郎氏によれば、『幕末三春藩の不遇の刺客小野寺舎人が十内の血を引くと舎人本人が言っていたようです。』そうなると三春藩と小野寺十内の関係がまた面白くなる。

 また小野寺惟道氏によれば、『十内の家系は謎が多く、出羽小野寺義道の子孫としていますが、十内は伊勢小野寺氏の出身です。親戚として明確なのは大溝藩と京町奉行の一族です。

三春藩系も伊勢出身としていますが、系図上の関係は不明です。三春系は母方が小野寺姓により改姓したとあります。

共に同じ常陸国内の隣接する笠間藩(浅野家)と宍戸藩(秋田家)に居た時代が一年強あります。既にこの時には三春藩系は小野寺氏を名乗っていたので系図上の関係は、この時ではないようです。

大溝藩分部家系の人物に会津藩加藤嘉明に仕えた小野寺の者がいます。ひょっとすると三春藩系はもともと三春加藤明成に仕えていたので、こちらの関係かも知れません。』とあります。

筆者の父方の祖父は三春藩出身の小野寺姓で、腹切り梅で有名な紫雲寺に謎めかしい一族の墓群があります。その祖父の代々は三春藩家老職(器械司)でしたが、維新の際にはかなり苦労したと聞いています。

その関係から我が家に代々伝わっている赤穂浪士の話があります。

知恵袋小野寺十内秀和は、討入りに際して深慮遠謀し、『吉良の首打ち損ねた場合、その逃走先は米沢上杉家だろう。さすれば我が祖先の地”三春”を通るやもしれぬ故、我が息子(あるいは親類か、十内夫婦は実子無し)を 三春の地に配し待ち伏せよ。』との策をとった。というものです。

 昔の話は、その真偽を確かめる術は全く無理といっても過言ではないと思います。戸籍簿も除籍簿もありません。まして玄人の歴史家や考古学者が好む一級史料もない場合、シロウトは何を頼りに歴史を探訪すればよいのか。でも口伝の物語はすべて偽りの産物だろうか。真でない場合は偽であると言い切れるのであろうか。

さすれば、偽書という手もある。津軽外三郡史偽書説か、そういえば坂上田村麻呂から続いた三春藩の最終的な殿様は秋田某でした。このかわうそのかわほんとうのかわうそのかわこの川獺の皮、本当のカワウソの皮?嘘の皮?この皮、嘘の皮?本当の皮?ウソの皮?早い話が、ノン?フィクションヒストリーでござる。

 本当に待ち伏せしたのかどうかは虚実不明ですが、想像推理の楽しさも歴史の面白さの一つです。ほな!主題に入りますが、小野寺十内夫婦には実子が無く、十内の姉貞立尼の二男(大高源五の弟)の「秀富」を養子としました。

小野寺幸右衛門秀富は部屋住み、1676年生れ 28歳で養父の小野寺十内とともに吉良邸に討ち入りします。ちなみに、赤穂四十七士のうち1/3ほどは小野寺と親戚縁者ですから、親類同士よってたかって時の幕府に一矢放ったのかとも。

とすれば、一矢放つだけの理由はあったはずですが、秋田から宍戸、三春へと国替(くにがえ)の恨みか、そもまた不明なり(R5現在調査中)。いずれ遺伝子的にはかなりシツコイ家系かと思料。

 小野寺秀富は討ち入り後、毛利家お預け切腹で相果てます。従って三春にて待ち伏せするのは息子の秀富ではないと。そこで身近に思われるのは、十内・丹の夫婦には子息「秀富」の他に養女「いよ」(丹の妹)が居りました。

 この「いよ」伊代はんは、おなごとはいえ謎の多い十内の家系のこと、忍者として鍛え上げられたものと思われます。十内の系譜が伊勢出自ということは、伊賀や甲賀にも近く鉱山に詳しく、作陶なども日常的にマスターしていたに違いない。

いわゆる器用貧乏そして暇なし。そこで“養女「いよ」は三春の縁者を頼り、女忍者として吉良を待ち伏せした”という突拍子もない発想をしてしまった。当然、戦闘服は当時流行の火事場装束である。もしここ三春でも取逃がした場合は、米沢の上杉家の正面玄関まで追いかける覚悟であったろう。火事場衣装、目立つことは良いことだ。

しかし仇討ちは、知恵袋十内らの周到なる仕業で成就し、「いよ」の養父十内切腹のあと、養母で姉の丹は京都の屋敷(東洞院仏光寺通入ル)にて絶食餓死の道を選び、夫の後を追う。(場所が確定出来ていません。かなり探したのですが)

 「いよ」は京へ帰ること能わず、そのまま女系三春小野寺としてその山里に安住し、小野寺舎人へと続く。

舎人は幕末の三春藩の人で、戊辰戦争後許されて父の仇討ちに上京しますが、「敵討ち禁止令」のため果たせず自害します。

前後しますが、この「いよ」はただじっと吉良の一行をこの三春で待ち伏せしていたのみではなく、飛脚早馬あるいは手下のくのいちを自在に駆使して南東北一帯を監視。

特に夜逃げして悪名を残したことになっている城代家老の大野九郎兵衛(650石)は福島と米沢の県境板谷峠に潜み、これも最後の布陣としていよと緻密な連絡を取り合っている。九郎兵衛は本懐成就とともにこの峠で見事切腹して果てているが、介錯は十内の娘いよであったと思れる。

と、ここまで書いているうちに何とまあ、しつこい家系というか執念の強さを思いつつ、また戊辰戦争の時の三春藩の逡巡や苦悩の決断、自由民権運動発祥の主要な地であること、秋田家や小野寺家ともに昔は土崎湊付近で人質の遣り取りをしながらも、家康はんの命令で宍戸藩を経て山間の地三春にまで転封される等々。

”マドンナのララバイ”

戦うお父さん達を陰で支え、助言協力する女性たちの辛抱強さや優しさ、そして団結の気構えがなければ、ここまで持続的にDNAを死守出来なかったのでは、と女忍者説に一人納得しますねん。

いずれ、筆者標葉石介改め砂としては直感的に秋田家と小野寺家との宿命的なものを感じるのです。時代は巡り、輪廻は転生することが世のならいなり。因果応報寂滅為楽