読んだ積もり -3ページ目

読んだ積もり

読書記録メインに、日々のかけらを綴る

加瀬俊一という人は、自伝を書くときとは違い、史実について語るときの口調は慎重だ。

なので、今サーっと一読したが、何度も読み返さないとこの密度濃い内容が入ってこない。

実は現実にこれらの人々と対面している彼からの視点がもっと出てくることを期待したのだが、おそらく間違った記述はいけないとそれぞれの巨人たちに対しての取材を細やかにされており、その分ちょっと一般化された内容で、そこが前回の「昭和」が変わった より、読み進めない理由かもしれない。

同様に、ヴェルサイユ宮廷についても生前本を書かれているので、読んでみようと思ったが、語り口がどうもご自身のエピソードのときとは違い、一気には読み進めない。

 

ちなみに、装丁もすごく懐かしい感じの古き良き時代の本です。

 

 

 

そんなわけで、今日はいろいろ気が散ってしまっているようだ。読書より仕事や他のことを考えている。

 

まず健康。

先日の体調不良のあと、健康のための実験として、いろいろサプリを試し始めたが、健康になっているのかやたら食欲がわいてきて、かえって体重増加して不健康になるのではと懸念している。

運動もしたいが、なかなか時間がとれないので、毎日駅から職場まで小走りしたりしている。が、それにしても今の季節朝も暑い。

 

次に、ついに化粧を復活した。

女性としてかなり怠慢かと思うが、今年の春に経験したアレルゲンなきアレルギーにてまったく化粧ができなかったのを理由にずっとしていなかった。

そろそろ大丈夫かと遅ればせながらBBクリームから始めてみた。

去年フランスで買ったBBクリームと化粧品がまだたんまり残っている。

 

そして、仕事。

仕事のことを考えるのはとても楽しいが、細かい処理系のことをやるのはあんまり好きではない。

みんな同じでしょうね。。

早くウェブサイトを立ち上げたいのに、のんびりしてしまっている。今年こそ!

 

フランス製の生地やパターンが気にいってしまい、最近洋服に散財してしまった。

深く反省。

 

ピアノ、だいぶ弾いていない。

祖母のピアノをもっと可愛がってあげなければ、、、

 

牛乳の値上がり。

しばらくあまり価格が変わっていなかったから、しょうがないことなのか。

トイレットペーパーも一時期から一気に値上がったけど、牛乳も値上がり時代なのだろう。。

 

札幌でも37度。

地球はあったまっている。10年後の地球はどうなっているのだろうか。

人間が行っていることで、対応できるのだろうか。。

 

そして、今日一番気になっているのは福島第一原発の処理水放水だ。

安全性についてももっと技術的に説得されたいけれど、中国との関係も心配なところだ。

 

そろそろ料理をする時間だ。

 

 

 

 

 

これを読んで、「真珠湾の代償」の奥にあるものをつかむことができた。

 

あとがきにて、ご子息も編集に加わられたというコメントがあり納得もしたが、101歳になる方がこれだけしっかり文章を書けるというのはものすごいことだと思う。息子さんの英明氏も、100歳を超えて、父は私より頭も冴えていて、杖にも補聴器にも世話にならないと。激務をこなした人生でいらしたかと思うが、見習いたいものだ。

例えば、吉田茂と重光葵という章では、吉田茂を「春」にたとえて、重光は何にたとえられるのだろう?と楽しみに読み進んだところ、ほぼ吉田茂のことで、重光はちょっとエッセンス的に登場したに終わってしまったり、少し勢い的なまとまりのようでもあるが、1ページ1ページがすべて貴重だ。

それに、これだけの経験をされた方だからこそ、自分を褒めても嫌味ではないし、むしろ感服させられる。

 

資料としても、歴代の外相や交流の深かったチャーチルの描写など、当時を知る上で、生き生きとした人物像が浮かび上がり、とても参考になる。また何よりも日本という国、日本人という民族について改めて誇りに思える。昔の人のすばらしさをどうやったら今の日本が引き継いで行けるのか。。

調印の場という歴史的瞬間の描写では、涙なくしては読み進むことができなかったが、電車の中だったので、必死にこらえた。

 

今の日本人は豊かな教材があっても、昔の人のほうが英語がうまかった、という。

そして、それは動機が違って、昔の人は日本の独立を守るために勉強した、昔の人には覚悟があった、と。

私は右翼になるつもりはないけれど、ナショナリズムと呼ばれるものの片鱗を自分の心にみることが多くなってきた。

人は自分にだけ向いて利己的になると、生み出せるものはちっぽけなものでしかない、それを感じすぎるほど感じる本だった。

またナショナリズムが強すぎて狂気じみてはいけないが、自分のためだけでなく、社会がよくなるためにその一部として人は生きていくんだ、毅然とした昔の人の心のモデルを、日本人は今、どこに見出したらいいのだろうか。

その答えをもらえた本だった。

日本に生まれて日本人として育つと、最初はわからないが、だんだん年とともに成長してくるこの自国への思いは、やはり小さいころから育まれてきた何かがあったのだ。それを自分は子供たちにどれくらい伝えられているのだろう。

この本を読んでいていろいろな思いがせめぎあって、心の中にいくつも言葉が浮かんだはずなのに、今は覚えていない。

またこの方の教養の深さからもっと引用したい部分があったはずなのに。

時代は変わる。

でも、逆に時代を遡って、引き続き日本の歴史を語る本にも向き合ってきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当だったら、あまり立ち止まらない方がいいことかもしれないけれど、今世界史の悪人とされている人々にとても興味がある。

 

というか、なぜそのような悪人に、人々がついていってしまったのか。

具体的にいうとファシズムに興味がある。

 

ファシズムはフランス人夫曰く、「イタリアのものだ」という。

なので、先日フランスのファシズムについてのロシェルの本を読んでいたら、「フランスにファシズムはない」の一点張り。

しかし一般的にドイツもイタリアもひとくくりでファシズムにしており、ファシズム=独裁政治というイメージしかわいてこない。ロシェルがナチスに傾倒していたから、ファシズム扱いとなってしまったのか、このくくりもいつか再考してみたいと思う。

 

ともかく、どう贔屓目にみても、ファシズムが善であったとはいえないだろうが、(最近岩波ブックレットのナチスは「良いこと」もしたのか?を読んで、やはりこれはナチスは悪だったということを裏付けるために書かれた本だと思った)なぜ人々に支持されたのか、日本の戦前もそうだが、なぜそういった方向に行ってしまったのか、それが知りたい。

 

テレビをつけると水戸黄門の再放送、おとぎの国のめでたしめでたしのお話を聞かされて育った幼少期、世の中には善と悪しかないように錯覚してしまっていた。年をとればとるほど、歴史を上書きするものが、善悪の判断を下しているだけではないのか、と疑り深くなり、ただ疑り深いだけでなく、本当はもっといいところがあったのではないか、でも私だけは信じてあげる、というセンチメンタリズムに侵されて自爆する女の勘違い的な幼稚さと初心さも加わった好奇心も混ざっているような気がする。

 

そこで、加瀬俊一氏自身が書いた本を読み始めた。

貴重な歴史の生き証人は、101歳まで生きられて、しかも、まだ第一章を読んだにすぎないが、101歳にして、相当に切れる文章家でもある。

彼のおっしゃることは、ほぼ反論できないが、こういう人から見て、中曽根元首相がそんなに評価されているのだけ驚きだ

日本の古き良きを知っている人の切れ味の良い文章ですでにワクワク感が止まらないのだが、彼がヒトラーやスターリンと実際に会っているところがまた興味深いのだ。

 

日本の第二次戦前後の状況と、当時の日本人から見ての彼らの何かしらの力が透けてみえることを期待して読みたいと思う。

 

またご子息の英明氏のイスラエルびいきが不可解だったが、彼は昭和天皇他戦後のトップが自衛に走ったと批判しているようで、政治思想的に関係しているのだろうか。。そこに俊一氏の家庭内のつぶやきが影響しているのか、まったく知る由もないが、今度はご本人の筆が残した言葉に耳を傾けて歴史をのぞいてみたいと思う。

 

ちなみに日本人は働きアリ的だが、フランス人もよく働くと思う。

今やっと仕事が終わったようだ。

私が仕事が終わったのがほぼ22時。

 

とりあえず料理は終えたので、あとは寝る準備して待つばかり。

今日は若者たちに「夢を話そう」と言ったところ、「何もしないで家にいたい、おたくになりたい、ゲームだけする人になりたい」と悲しい答えが返ってきた。私なんかみんなの倍以上の年なのに、まだまだ夢があるよ、と私の計画を片っ端から話したところ、「すごーい」と全く他人事。

でも、なんだかんだ言って、少し書かせたらいいこと書けていました、みんな。

 

 

昨日は朝から体調がよかったはずなのに、夕方仕事がはけて久々に都心の本やに寄ったところで何やら体調不良となってしまった。

 

今関心のある問題ばかりを扱った本ばかりがぎっしり入った本棚を5つくらい前にして、手に取る余裕がなく帰ってきた。

 

さて、主題の本だが、本日仕事が終わってから一気に読み進めた。

 

感想は、読んでよかった、と思う。

実は東京裁判の映画が妙に気になっていて、今年は私も遅ればせながら、もっと日本の戦中戦後史について学ばなければいけないと考えていたところで、良い入門編となってくれた気がしている。

 

歴史は解釈する人の観点で全然違って見えるが、当時の人物についての臨場感のある描写で、非常に入り込んで読むことができた。

歴史の教科書等で学ぶのではなく、当時を生きた人の観点からヒトラーやスターリンも出てくるので、興味深い。

また、当時の外相についてのそれぞれの個性や特性が伝わってくることで、頭の中がごちゃごちゃにならずにすんだ。

非常にうまい書き手だと思う。

そして、日本が国として輝かしい位置づけにあったころのこと、それゆえの先の先を読んだ外交、誇らしく思える点も混ぜつつ、なぜ苦しい結末を迎えたのか、、、残念でならない結末についても納得のいく書き方がされている。

 

一方で、当時の政局の目まぐるしい動きから、ひとりの人物についての評価が二転三転することもある。鈴木貫太郎については、彼でしか終戦の処理ができなかった、と褒める一方で、彼がポツダム宣言に対して誤った対応をしたことで、広島長崎が起きてしまったとの記述もある。ので、一貫した人物像が構築できるわけではないのだが、人間とは黒白はっきりしたものではないのだろう。マッカーサー、アメリカに対しても、だ。

 

「御国のために」という言葉が美しかったころ、適切な判断を誤った人間たちに翻弄され、失われた命の無念さを考えると苦しい。

そして、日本という国がさらに賢く、また徳高い国であってほしいという理想は、現実に直面しながらも日々頭をよぎる。

 

祖国への思いとはこういうものなのだろう。

この本は、加瀬だけについて語っているではなく、加瀬の活躍を描きながら、戦中戦後を描こうとしていて、果たして、加瀬自身の言葉なのか、筆者のフィクションなのか錯覚してしまいがちなところがあるが、そこでようやく筆者の一番強い思いが現れてくるのが、247ページだと思う。

しかし、それまでのページを全て読み超えてこないと、このページの裂け目がわからない。

 

日本が完全に変わってしまうその前に、さらに歴史について学びたいと思う。

 

 

 

 

 

 

ずっと外資に勤めていたため、お盆休みのある会社での夏は初めてだった。

 

母たちとゆったり過ごすことが出来て、本当に良かった。

休みが終わるのは一瞬のことで、本日はまたありがたいことに多くの仕事が待っていた。

 

昨日は用事もあって出かけた帰り、大山商店街と池袋に寄ってきた。

 

長い商店街が有名だったので、一度見てみたいと思っていたのだが、商店街の中間ぐらいは工事中だった。

みると「再開発」反対のメッセージがあちこちに。

なぜ誰もうれしくない再開発をあちこちで行うのか、、、

 

昔の街を残そうという心意気がみられないのは悲しい限りだ。

 

そこにあった細長い奥行きのある本屋で終戦について考えるにあたって一冊の本を買った。

ものすごく大きな本屋でないが、岩波やちくまの本が置いてあるのはいつも好感がもてる。

 

タイトルは「真珠湾の代償」、

ありがちな学校の授業なのだろうか。歴史の授業で最後のほうはものすごい速さでスキップしていくため、本当に情けないことだが曖昧な理解でしかなくて、終戦がどのように運ばれていったのか、よくわかっていない。

ただ認識を新たにしたのは、アメリカもソ連も敵ではあったが、なぜ日本はソ連と和平交渉をしようとしていたのか、、そこがわからない。

この本は、当時の外交官加瀬俊一についての本だが、それ以外の周辺の様子も書かれている。

ただ話があちこちに飛ぶので、私のような知識不足の人間には、何回か読まないと当時の国際関係が見えてこない。

 

彼自身は終戦後も長生きされて、101歳までご存命だったようだ。彼自身がいろいろ手記を書いているので、そちらを読む方がよいのかもしれない。

また、彼の息子の英明氏がGoogleで出てきたが、なんとイスラエルとの結びつきがとても強かったようで、(元安倍首相も)ますます混乱してきた。

 

今日も、教育のこと、科学のこと、さまざまなことを考えたが、また明日に備えなければ。

 

何か明日にはこの本の感想が書けるぐらい理解ができればと思う。

 

たいしてきちんと料理しなくても喜んでくれる夫に今日も感謝しています。

そして、80代の母に優しくフランス語を教えてくれることにも。

 

 

私よりフランス人の夫のほうが、お盆や終戦記念日についてしっかり覚えていて、なんとも恥ずかしい限り。

夜12時を過ぎたら、「今日はお盆ですね。」と、故人の写真の前で手を合わせる。

 

今の日本があるのは、戦中戦後、そしてずっと前から名のない歴史を紡いできた人たちがあったおかげなのに、なんの苦労もなく便利な生活を謳歌して、今晩は何を食べよう、なんて考える時間を持てていることに感謝しないなんて、きっと罰が当たる。

 

私が生まれてきて何年が経っているかはとても沢山の数なのだけど、初めて母に「玉音放送」のこと聞いてみた。

子供で、よく覚えていなかったけど、大人の人では泣いている人もいたよ、とのこと。

「日本が敗けた」

このことを受け止めなければいけなかった人たちの胸中を自分のこととして想像してもしても近づくことが出来ない気がしている。

情けないことに。

 

今の時代では思い切り薄められて遠まわしにしか掴むことのない戦争の時代。

人の記憶は自然に嫌なことを忘れさせようとするものらしいから、このような苦しい記憶を何度も再現することは、戦争体験者の方たちにとって、非常にエネルギーのいることだと思う。8月15日だけでも、すべてのメディアはこのような貴重な言葉を伝えることに集中してもいいのではないだろうか。

長崎の原爆資料館に行ったときには、ただただ涙がとまらなかった。悲しくて泣くよりも、のどのあたりが辛くて、こらえられない嗚咽がのぼってくるようだった。感情とは悲しみや苦しみというようにきっちりと区分けできるものではないから、そのショックを言語化するのは、ただの単純化に留まってはいけない。その嗚咽から何をしなければいけないのか、そこまでの導線まで含めて大人は教育を考えていかなければいけないし、何に思いを帰結させていくか、の言語化を導いていかなければならない。

 

私たちはもっと多くの声に耳を傾けて、今この世界が平和であるならば、その平和の中でどんな素晴らしいものを作り上げていかなければいけないのか、それをもっと真剣に考えなければいけないと思う。

当たり前にあるものが当たり前でない、ことに気づくことから始めて。

時間やお金にとらわれているばかりではいけない、というようなことを示唆する物語がいくつかあったけれど、本当に真剣に生きることを考えることで、それらから少し解放されていくのかもしれない。

何事も私事として考えること、そこから始まると思う。

自分も含めてのことだが、戦争を知らない世代の教育は、なにかきれいに文章をまとめるけれど、当事者感覚をもっと持って臨まなければいけないことをし残してしまっているようだ。

 

昨日の仕事、やはりすべては終わらなかった。

添削と細かいフォローアップだけは終わらせた。次のテストを考えることはしたけど、これを作りこまなければ。

そして、特別プログラム、こちらはまだはっきりできていない。これが一番時間がかかりそうだ。

 

 

 

 

 

休みが終わりに近づくとやたらと焦りモードに。

ゆったり過ごした時間を抱きしめながら、心は未来の時間に飛ぶ。

 

ダイアログを書かなきゃいけなくて、添削しなきゃいけないものがあって、次のテストを考えなきゃいけなくて、あと特別プログラムの内容も整理しなければ。

で、細かくフォローアップをしなければいけないものがいくつもあるので、、天候理由で家にいる必要があるのは、よいことかもしれない。

 

毎日小さなショックを受け止めながら、数時間でそれらを吸収し、次に進まなければいけない。。

 

 

仮に私が小説を書くとしたらこんな書き出しになりそうだ。

 

私は毎日朝から夜まで2つの仕事をしている。

家族はフランス人の夫と義母と、なぜか義兄の元夫。

子供たち二人は今は自活していて、年老いた母が家からそんなに近くないところに住んでいる。

そして、パイナップル中毒になっているような気がする。

 

 

 

文春新書です。

 

トッドの本には興味を持っていますが、いまだにちゃんと読んでいません。

最近夫の考え方にかなり影響されていて、その彼がトッドには賛同できる部分もあるといったところで、いわばお墨付きをもらったような気持ちで「我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上 アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」を読む前に、読んでおこうと思い手に取ったように記憶しています。

 

今あえて日本がトッドの作品を取り上げるのには、どんな意味があるのだろうと考えます。

本当は日本はアメリカの影響から逃れたいけれど逃れられないそんなもどかしさから出版社や書店がトッドの本を大きく取り上げるようになったのでしょうか。

外国の人の視点を合わせて考えると、日本は国が許している弁論の自由について、かなり恵まれた国なのだと改めて感謝します。

ただ、この自由さを、日本に生まれ育っているどのくらいの人口が理解できているのでしょうか。

私たちは日本がまるで規則ばかりで不自由な国であるかのように錯覚することがありますが、実はものすごく適当で自由な国なのだと思います。ほかの国がもっと自由だと思ったら、それはただこの国で感じやすい一時的な閉塞感のせいだから、かもしれません。

目に見えない平和への絶対の肯定は、時に民主主義というこれまた拠り所のないとってつけられたラベルの下に、ただ一部の国のメディアに追随しているだけで、何が本当に戦争を起こしているのかを見つめようとはしていないからなのかもしれません。

 

今の日本を考えると、すべてがお金と自分に向いていっているようで、何かが戦後に奪われてしまったからなのだと考えざるを得ません。

親世代も自分も「お金」というものが一番大事で、それがないと幸せになれないと信じ込んでしまっていたように思います。

この「お金」という価値観を「幸せ」としてしまったシステムに対して、「自分へのご褒美」という概念まで生み出してしまった社会に対して、まだもしかして取り返せるのか、と焦燥感にとらわれずにはおれません。

 

なので、この本についての文章というよりは、この本を読みながらキーワードを拾っていくのにとどまり、あとはつぶやき程度の乱文で終わりそうです。

 

まずトッド氏のいうところの「家族」構成からの分析。多くの人が結婚を選択せず、子供を産まなくなってしまったことで、そもそも「家族」が崩壊してきてしまっているため、「家族」をもとにした政治体制が当てはまらなくなっているかもしれないけど、何かそこに共通したものはあったのだと思います。

日本は長男が家を継ぐという考え方があったけれど、今はそれもかなり自由になってしまって、家そのものを存続させる意識が低下しているようです。多くの事業が継承者なくして廃業していくと聞いています。今まで親から受け継いてきたいいもの、ありがたいものを十分に意識しているのでしょうか。いつまでもいつまでも同じ状況が続くと信じて、ただ日々の仕事をこなし、うまく生活している錯覚を起こしているだけではないのでしょうか。

 

生命は続くもので、家柄とか事業を別にしても、親から受け継いだ大切な部分は次の世代に継承していく、この営みを拒否して、自分だけがうまく一生を生きられればよい、自分の家族だけが生き延びられれば良いという狭い視野の人生観がある民族に生まれたきらめきを終焉させていくのでしょうか。

 

アングロサクソンの支配について、まだトッド氏の著作を読んでいませんが、「英米タイプの攻撃的なフェミニズム」とか、「最近のLGBTの問題」についても、そこまでむきになって主張する必要があったのか、きっとそこはとても賛同できる部分が書かれていると思います。

日本がなぜそこまで英米の真似をしなければいけないのか、ということをもう一度メディアも考えてからそのもともと日本になかったカタカナ語を取り入れるべきだと考えます。

 

フェミニズムとか男女平等なんていっている間に、小さい子供が母親と一緒にいることが一番いいことなんか誰でもわかっていることなのだから、保育所を増やすより、子供を産んだ母親に子育て中には働かなくても十分に暮らしていけるだけの手当てをだせばいいのではないでしょうか。そして子供と一緒でも働けるような環境を整えていくべきではないでしょうか。

そして親も習い事を沢山させるためでもいい学校に行くためでもなく、もっと自分の子供を見つめる時間を確保するべきでしょうか。自分の子育てからの後悔をぶつけているような文章になっていますね、、

そして、第三者による卵子提供、もっと抜本的に対策してもよいのではないでしょうか。また代理母についてももっと日本的にフレキシブルに考えていってもいいのではないでしょうか。誰にでも子供を産む権利はありますし、育てる権利はあります。

 

2 ウクライナ戦争と西洋の没落

 

こちらもロシアの攻撃ばかり一辺倒のメディアとは違いますね。

実際日本はアメリカへの遠慮があるからいえないでしょうが、ロシアについては再考の余地があるのではないかと。

ヴァルダイ会議でのプーチンの演説については是非聞きたいと思っています。

日本核武装のすすめ、をすんなりとは受け入れられはしないけれど、日本がもう少し自立した国になり、日本人が我に返ることが出来る日々はくるのだろうか、と疑問に思う。

日本はネイションとしての気質はアングロサクソンとしては正反対なのにその違いを誤魔化さなければならず、、、のくだりは本当にそう思います。そして今私のように今まで自分が信じてきた常識を常識と思えなくなって疑問に思う人間が現れてきているのだと思います。

 

 

3 トッドと日本人と人類の謎

 

私もほかの多くの人たちと同じようにベストセラーになっている本を選択します。

ただ、どうしても面白くないし、何にも心に残らない本はあって、それがハラリのサピエンス全史やホモデウス。

あと、トッドについて言及するピケティの言葉も出てきますが、ピケティの本もたいしてピンとくることはなかった。

それは、日本に生まれ育って生じてくる疑問に直接答えるものではなかったからかもしれません。

 

欧米と英米の言葉の違い、ファシズム、ユダヤ人、多くのキーワードの再定義が今すごい勢いで私の頭の中で行われているのですが、やはり国家が強くなりすぎると息がつまりそうだな、とは思います。今の自由に出版ができる日本であるうちに、いろいろな言葉を残しておきたいと思います。

新書という本は様々なテーマの入門編として存在するような枠組みの本だと理解していますが、この章は本当に様々なキーワードを拾って、思索するための勢いのある内容です。

 

4 水戸で世界と日本を考える

 

ヨーロッパ人にとって最後の砦なのかもしれません。日本。

 

5 第三次世界大戦がはじまった

 

ウクライナ、ロシアに武器を輸出している国がどこか、が大事なのかと思います。

 

駆け足で最後書いたのは、今夜も更けてきているからです。

そして、誰がこんなにお金至上主義の考え方を押し付けてくるのか、その犯人が知りたいから、また本の中を彷徨い始めなければ、いけない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

クローヴィス (文庫クセジュ) 文庫 – 2000/8/1

ルネ ミュソ=グラール (著), Ren´ee Mussot‐Goulard (原著)

 

文庫クセジュの翻訳はなかなか読むのが難しい。

おそらく重厚な内容を新書一冊に納めるので、前知識がないままに読んでみようとすると結構頭の整理が難しいのかもしれないと思っています。

日本の新書は、最初の一冊としてベーシックな知識を獲得するために、大変重宝しますし、ぱぁーっと読めるのですが、クセジュを読みこなすにはいつも苦労しています。

多分私の理解力の問題?

ななめ読みすると途端にわけがわからなくなる、それぐらい一文一文が重要なのです。

そして、今回のこのメロヴィング王朝時代のフランスの複雑さ、様々な民族、王、皇帝、英雄、この名前を把握するのが大変でした。割と小さいころから海外文学を読むときに抵抗なく名前を覚えられていたのですが、この本は大変な部類です。

 

でも、白水社の文庫クセジュにはものすごく沢山、私が知りたい分野がカバーされている本があって、生きている間に岩波文庫を全部読み切れるかなあ、、と思っていて、全然到達していない中、今文庫クセジュを生きている間に読む、そのうち何冊かは原書も読んでみる、という途方もないことを考えています。

今全体的に黄色い本いなってしまいましたが、昔のヘルメスとか、ギリシャの神々の顔と色でジャンル分けされていたころの装丁のほうがよかったですね。

 

フランス革命の本ばかり読んでいた小学校、中学校時代には、ルネサンスぐらいまでは遡って、分野を広げていたけれど、改めてフランス史の最初のほう、特にメロヴィング王朝のころをカバーしたいと思うとなかなか沢山の本はないわけです。

 

なぜクローヴィスか、もちろんダゴベルト1世もその後のカロリング王朝もヴァロアももちろん興味はあるわけなのですが、まずクローヴィスかなあ、と思っています。

 

クローヴィスと言えば、最初にフランク王国の国王となって、キリスト教に改宗したこと。

以下Wikiより

 

 

45歳の生涯は、ほぼほぼ戦いに次ぐ戦いに費やされ、統治が完了したのは亡くなる前の2年。

政治家というよりは、戦士だったのですね。

 

クローヴィスはシャルルマーニュと違って、人間的なところがなく、冷血と言われている。

彼はどんな人だったのか、、紀元466年から511年では、昔すぎてよくわからないけれど、なんでもツゥールのグレゴリウスさんが、当時のメロヴィング時代のフランク史を書き残していて、最初の1-2巻にクローヴィスが出てくるらしい。

グレゴリウスは、かのグレゴリウス暦を作ったローマ教皇グレゴリウスとは違って、歴史家で、メロヴィング時代の司教だったそう。

グレゴリウスの1世紀後に書かれたフレデガリウスという歴史家の著作や、司教のアヴィトゥスや、レミギウスの記録も引用されています。

 

それにしても、フランスの歴史をよく知らないと、ゴート、ガリア、フランク族、ブルグンド族、ヴァンダル族、いろいろ国や民族の名前で混乱します。

 

まず出てくるのが「サリー・フランク族」

これがクローヴィスたちのルーツと言われています。サリカ法典という法律もあったのですね。

クローヴィスはここで私的復讐も禁じたとか、、それぞれの身分のものが皆生活を保障されているとか、、

ちょっと興味があります。

 

フランク族もいっぱいあるようで、東フランク族、ライン・フランク族ともうここで混乱。

ガリア人という言葉があるが、このガリア人と近い関係にあったのがフランク族の中でもサリー・フランク族。

サリー族はローマに仕えていたが、5世紀にはもう自らが支配する立場になっていた。

この辺りで台頭してくるのですね。

そして、当時はビザンツ帝国も隆盛を極めていて、からんでくる。そして、西ローマ帝国はすでに権力が空洞化の状態のころにクローヴィス即位(481年)

 

こんな形で数々の民族やまずクローヴィスの祖先のクロディオンや、父キルデリクスの話から始まっていきます。

クローヴィスの冷血さ、というところが気になるのですが、確かに家族観の不仲につけいって、片方を味方につけて攻撃をしたりするところは本当にひどいですが、戦略としては卓越していたのでしょうね。

また血なまぐさいエピソードもあるようですが、これは、上述のグレゴリウスとフルデガリウスの間で多少描写に差があるようで、本当のところはそうでもなかったのでは、、といも言われています。

 

歴史小説ではないので、まったくもって客観的に資料からクローヴィスの人物とその周辺の歴史背景を解いていうアプローチですが、返ってクローヴィスのすごさが伝わってくるようでした。

数々の戦いに勝ち、王として君臨する、その強さ、振り返らなさ。キリスト教を、果たして武器に使ったのか、本当に信じていたのか、、そこのあたりもすごくドラマがあります。

 

しばらくクセジュ読みをすると、頭が少しよくなるような気がします。

特に記憶力と人間関係の把握について、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は急に眠くなってしまって中途半端にまとめてしまいました。

 

ので、続き。

 

この本の結論

「フランス革命は政治文化の変革」という。

 

ブルジョワの勝利ではなく、資本主義の勝利でもなく、では、政治文化とはなんなのか、

その定義をはっきりさせない限り、曖昧なままで終わってしまいそうだから。

 

フランス革命の社会史 (世界史リブレット)  松浦義弘著

88ページより引用

フランス革命期の人びとは過去を全面的に否定し、政治によって新しい国民をつくりあげようとした。

そこには、人間や社会や国家は不変でなく再編成が可能なのだ、という確信があった。.....マス・プロパガンダの技術、大衆政党の可能性と下層階級の政治的動員、社会や日常生活の学校化と政治化...

これらはすべて、国民を再生するために生み出されたのである。....政治によって社会や人間は全面的に改造可能だ、という発想とそれにともなう政治的実践の意味が、問われているのである。

 

昨日の復習からすると、1970年代のリン・ハントの著作について述べた文に「新しい政治文化」という言葉が出てくる

 

◆1970年代末以降

フランソワ・フュレ

・革命家の言語=イデオロギーの論理的帰結

リン・ハント

・言語だけでなくシンボルや儀礼を含む新しい政治文化

 

政治文化の転機→1789年 封建制の廃止と人権宣言

人権、議会、教育

 

理解しようとすればするほど、フランス革命が歴史の中で注目される事件であるのは、やはりその暴力性であるように思われて、、

当時の群衆は恐ろしい。

すぐに人を殺し、首を切ったり、心臓をえぐりだしたり、、、、

 

殺戮の力、

そして、議会が行う処刑の力

 

そんなにまでして過去を断ち切りたくなった人々の生活はいったいどんなだったのか、、

 

政治文化という4文字熟語がただただ空しく感じられる。

 

確かにフランス革命で確立されたいろいろなことが今日の私たちの社会の土台になっているはずだが、それを認識するところまで到達するには、あまりにも残酷な数々の事件が多すぎる。

 

バスチーユ牢獄司令官、ド・ロネー 首を切り落とされ、槍の先に首をつけて練り歩かれる

フ―ロン リンチにあい、首を切られて槍の先に首をつけて民衆は行進

その義理の息子、パリ地方総監 ベルチエ、殺されて心臓を取り出され、その心臓は市庁舎にむかって投げつけられた

 

9月の虐殺 囚人を虐殺 その場で有罪と決められた囚人は、滅多切り、裸で死体の山の上に放り出される、または首や四肢を切断される、またしても槍の先に首をつけて行進、、、

 

この暴力や、恐怖政治を、国の再編成のためのステップだとは当然考え難い。

 

なぜこんなひどい暴力が起きたのか、どうして特権身分はそこまで憎まれたのか

これだけの憎しみが行動になってくるというのは、よっぽど人々の生活は苦しかったはずだ。

しかし、、、元はCatholicの国、キリスト教徒、自分を犠牲にしても愛をうったえる宗教を掲げてきた国のはずではないか、、

私の疑問は深まるばかりだ。

 

この本一冊ではとうてい私の疑問は解決されないけれど、でも挿絵もあり、いくつかのフランス革命の事件を確認するにはよかったです。