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pata

初めて見たパタの製品はシンチラスナップTだ。(1988年頃)
ブルーのシンチラにグリーンのスナップ部。かっこいいというよりリアルなアメリカを感じた、ハッピーなアメリカだ。
その頃は、まだ日本支社がなくて、神田のサカイヤ等、山屋にいろんなブランドに混ざって売られていた。
当時のパタ商品は一部モンベル製でベル-ナンチャラ?社が作っていたらしい。
当時買った、シェルドシンチラジャケットは日本製でサイズタグがモンベルのものと同じものが着いている。(今も使ってます)
ベルトや軽量のウインドブレイカーなども持っていた。made in usaかな?
池袋SRC(今は無い?)では防寒用のシェルがSALEで売られてたりした。
目白にストアが出来た頃には、雑誌にも紹介されていて、すぐにスナップTを買いに行ったが、前出の商品は売り切れていて、次に入った、グリーンXピンクを買った。(これもまだ持ってます)
この頃、ダイビングにはまってて、かなりの量の商品をショップや通販で買った。初めて買った通販は Tシャツとジッパーにつけるリボンだったと思うけど、段ボール箱にスタンプ、そして英字新聞のクッションが入っていて、なんか航空便を思わせた。(国内便でしたが)
カタログがかっこ良くて、だいぶコレクションした。
なんかアウトドアの泥臭いイメージではなく精神世界のようなストイックな世界観は感動した。今のカタログも同じく感動してます。

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たぶん1990年の春物を通販したときの送られてきた商品箱とタグ

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古いカタログ、1989年の冬号(雷の表紙)がもらった中で一番古いはずだが行方不明、1990年の春号は発見

海関係の商品が少なくて、リバーショーツなんかを海パンに使ったりしてた。
アンダーシートバッグとウェットアンドドライバッグはファーストロットを買い今も使ってます。
良く出来た商品に、すばらしい基本理念。あっという間に全国展開。
5年程してダイビングに行かなくなった頃、町中ではアウターがアウトドアファンにかぎらず皆が着ていた。
自分もアウトドアでのコアなスポーツ遠ざかり、せいぜい夏場のキャンプぐらいになっていた。
そして何故か、あまり魅力を感じなくなり、見てはいてもあまり買ったりしないブランドになっていた。
2004年からスノーボードを初めて、自分的には帰ってきたパタなのだが、主力シェルには別ブランドを愛用してる。
ソックスやファースト、セカンドレイヤーには使ったりしてます。
なんか今は製品の能力よりもカジュアルなイメージを強く感じる。
(もちろん商品はすばらしいのだが)
コアなユーザー(パタ、アンバサダーにしても)は運命をギアにたよっても
ファッションには頼らないだろう、そのファッションぽさが強い気がする。
最近、社長の書いた本を読みました。企業理念は本当にすばらしいです。

1992年に行ったエルニーニョ以前のモルジブに、BCやレギュレーターにスナップTをまいてクッションにして持って行きボートの中で着ていたあの頃がなつかしい。
だが今も、黒く日焼けした顔とスナップTを見るとあのハッピーなアメリカを強く感じる。
そしてにこれからもファンでいつづけると思う。

the first issue

思い出しメモ。

取り立てて特別興味があって集めてたんじゃないのだが、
高校生頃に創刊した雑誌を集めてたことがある。
特にポパイは100号頃までは毎回買っていた。
いや、もっとだ社会人になってもしばらく買ってた。
すぐに廃刊した音楽 - ニューウェーブジャンルの
マニアな本もかなり持ってた。(タイトル、忘れてます、ジャム?とか)
おしゃれカルチャー本、スタジオヴォイスやビックリハウスや、
チョイコワなカルト本なんかも買ってた。
変わった本は、地元に売ってなくて輸入レコ-ド屋なんかで買ったりしてた。
本を見て、青山や、代官山を歩いたりもした。
(青山にハリランあったの知ってる?)
漫画はかってももすぐすててた。
お~思いだしたが少年ジャンプは創刊号を買った記憶があります。
(小2か3ぐらい?70円だったような・・)

あの頃は情報量が少なくて、雑誌からいろんなことを学んだ。
特にファッションやカルチャーは川崎北部ではかけらもなかったし、
おしゃれな人もいなかった。
なんか行間を読むとはこういうことだろうぐらい、
神経をとぎすまし、思いを巡らしてて読んでいた。
メンズクラブ連載のトラッド歳時記(単行本もあり)や take ivy は
5才上ぐらいの先輩達がリアルだが、バイブルだった。
もちろん街のアイヴィーリーガーに出るのは夢だった。
やっぱ、基本はIVYですよね、ラルフ様。
さらに後の made in usa 1-2 に大きな影響を受けたのは言うまでもない。
やがてファッションはもちろんサーフィンやバイク、
ダイビングの雑誌なんかもどんどん増えた。

雑誌は捨てることが出来きず、置き場所がたいへんだった。
後、引っ越しのたびに実家に置いておいたりしたんだが、
押し入れの底が抜けそうだった。やがてガレージにまであふれだしていた。
その全てを2003年に大掃除をし、ほとんど捨てた。
もお、見出すとキリがないんでバッサリと捨てた。
(一部の創刊号だけとってある)
その時、ベーターで取りためたビデオも捨てた。
たぶん100本ぐらいはあったと思う。
あたりまえだが見ないで捨てた。もうこれは全部だ。
(ソニーファンでBビデオも長ーく持ってました)
とにかくこの時、何回かにわけて整理したのだが、
2トンロングトラック、2台分金額で何万円もかけて捨てた。
まあ、衣類以外の雑貨も混ざってますが。(後、衣類もほとんど処分した)
売ろうと思ってBオフに見てもらったら、スタジオヴォイスなんかの
カルトチックなもんばかり持って行った。
なにげなく、ポパイやブルータスの創刊号を
挟み込んで持って行こうとし、抜き出したら、あれ、なんちってだ。
何でも買うと歌っているがおおうそだ。
この大掃除がきっかけで、仕事用は買うのだが
よっぽどでないと雑誌は買わなくなった。
なんか空しい気がするのだ。

今はまったくだが、雑誌に限らず、本も読んだ。(人並みです)
だけど単行本やハードカバーは収集癖はなく、
すぐ捨てるかあげたりしてた。とにかくグラフィックが重要なのだ。
自分はポップアートの影響でグラフィックデザインの世界に入ったのだが、
この頃の雑誌のグラフィックに興味を持って、
仕事を選択したような気がする。
広告などでは業界でグラフィックが中心だったような時代だった。
しかし本当の広告は企画、コピーが重要で、絵は枝葉なことが多い。
ファションを中心にした仕事がしたいと思ったのは
ファッションが好きだというのが主だが
グラフィックが大事な要素とされるからも大きい。

今やカルチャーの四隅をつっつき、無い物ねだりをあおる情報物欲社会。
そーっとしておきたいことなんかがブームになったりする。
あの頃のちょっとした情報で楽しめた時代がなつかしい。
まあ、penなんかは、自分向きなんだが、出してほしくない本でもあるのだ。
情報を取るにはネットはリアルだ。
だが、雑誌にはピピっとインスパイヤーされるヒントがちりばまれてる。
そのヒントをもとめて、雑誌をよく見る。
まあ、仕事柄もあるが、ノージャンルで見る。
あきることなく、これからも見続けると思う。







funky punpkin rider's club 

思い出して書きました。
funky punpkin rider's club & ccr

オートバイに乗り出したのは16歳になってすぐに免許を取ってからだ。
当時は高校生、もちろんバイクは持ってなく友人たちから借りていたりした。
弟がダックス70を買っていろいろいじってたことが思い出される。
当時は元祖、暴走族時代で、高校生としては必修科目だったのだが、
なぜか、周りがナンパで本気モードにはいたらなかった。
CRS=アーリキャッツ/ルート20/スペクター、マッドスペシャルなんかが
メジャーで当時在中の川崎北部はマイナーチームがいくつもあった。
当時、友人達から借りた、CB-750(K-1)とかヤマハの2ストRD-350
などをノーヘル、スニカーつっかけでかなりヤバイ乗り方をしてた。
個人的には、ヤマハのTX-500、バーチカルツインかホンダのCB-500フォア
(共にややマイナー)がほしかった。アンチ750だ。
アルバイトで購入計画を立てたりしたが当全無理。
当時からKAWASAKIは漢なイメージでマッハや後発の750は
ほんとに荒っぽいイメージだった。
つっぱりファションは好きではなかったが、
ちょいリーゼントふうにしたりしてた。(IVY基本でチョッパリと言われた)
その後、暴走族仕様が主流の中でクールス等のセパハン、
カフェレーサー風、はかっこよかったな。
高校卒業後は、通学や通勤でスクターには乗ってたんだけど、
バイク熱は冷めていた。

社会人になり、一人暮らしを始めていた25-6才頃、
弟が突然、ドウカティのSL-350を買った、(彼は中型免許)
そして、バリバリ伝説の連載と共に熱が上がって行く。
すぐにホンダのCB250を中古で買ってドカのシングルタイプに改造し
乗っていたが、やはり外車には外車と張り合って、
当時、用賀にあったタイムトンネル(中古外車、エンスー向け店)で、
ドウカティ、マイクヘイルウッドレプリカ、900ccの大型車を買う。
ここから本気でバイクにのめり込んで行く。
なんせ、その後は毎週ツーリング、
早朝に第三京浜で横浜まで行ってから出社。
夜はミスタードーナッツで永遠とバイク話。真冬でも箱根でせめていた。
そして、第二回バトルオブザツウィン(草レース)に出たりし。
レースにまで手を出し始めた。このドカはとにかく前傾姿勢がきつく
乗りにくいのだが、ハンドリングの良さとすばらしい排気音
(もちろんコンチマフラー)でどんどん好きになって行く。
弟と、友人のO氏は富ヶ谷の今は亡きケニーズ(バイクショップ)で
新車購入からカスタムを始めていた。(ケニーさんなつかしー。)
バイクに乗る前から、半年ごとに引っ越しを繰り返していたのだが。
この時は給料のすべてをバイクに注ぎ込むため、
家賃の安い所に移って行った。なつかしい池尻大橋から西荻窪時代だ。
やがて、あこがれのオリジナルの900SSに乗り換えたが、
ますます乗りにくくまたレプリカに買い替えた
(タイムトンネルでバイクを取り替えててた)
このレプリカは日本のドカ界に燦然と輝くヤンキー魂全快のパワーハウス
フルチューン車で、これをケニーズ亡き後残ったカスタムマニアのショップ
浅草フェニックスでさらにいじっていた。
当時、勤めていた事務所が原宿、セントラルアパートで弟がグリーンピア
(ラフォーレの隣)で、友人のOK君とGUNちゃん
(アパレルでやはり原宿だった)たちとカフェドロペの横道の
新聞隣の居酒屋まつしまで夜な夜なツーリング計画をねっていた。
(今はしゃれた店になってる)
その頃、自分ではかってにこのチームをFunky Punpkin Rider's Club と
命名していた。(誰もなっとくしてなかったし、みとめてなかった)
草レースもタイムトンネル、BOTT、サウンドオブツイン等増えていて
レース用にドカティパンタ600を買い、レーサーにして乗っていた。
ほんとお金かかってた。

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ドゥカティワークスレーサー
左からマイクヘイルウッド、750SS、TT600
自分もカスタムだがこのバイク順に乗り継いだ。SSは900のノーマル(シートのみシングル)だがレプリカはこの写真のモデルと、ほとんど同じにカスタムした。

やがて運命のバイクに巡り会うときが来る
カスタムの創始者ケニーズがイギリスのコンストラクトメーカー
スポーツモーターサイクルから仕入れた
ハリス-ドウカティパンタ600TTレプリカだ。
これは輸入第2号車だと思う。藤沢のお金持ちが手放し、
フェニックスにあったものを900レプリカと600レーサーを売り、
さらに、ローンを組んで購入したのだ。
このバイクは本当にスペシャルで書ききれないほど良さがあった。
今も大活躍している、ドカのレーシングチーム、ファウンデーションの
オーナーがその昔ハリス3号車で信じられない速度で箱根等を走っていた。
ちなみにメカニックさんは当時のケニーズにおつとめでした。

duca_01_02

上が3台目でたぶん下が2台目だと思う。(これが実車だと思います)
右がSMC代表のMr.Steve Wynne BOTTで来日し、握手したことがあります。

チューブというメンズのメーカーでプレスをしていたS氏と
仙台のサーキットまで練習によく行ってたりした。
若い、まじ若い、元気でした。
彼はヤマハのシングルレーサーに乗っていた。
そのS氏とはこれまた勝手にCCRというチームを名乗ってました。
あの時作ったツナギの胸に大きくサインが入ってます。
(そおいえば弟はレースに会社名でエントリーしていた)
やがて弟はドカF-1を購入しレーサーにしてすごい成績を出し始めた。
本当に速かった。なにかが乗り移っていた。
BOTTは2,3,4回と出場したが、自分は4回目に8位が最高位
弟は、別のクラスだったが4回の大会では優勝しかけた、
なんとラストラップに接触(後ろから引っ掛けられたような)し、
クラッシュしてしまったのだ。本当に残念だった。
仙台でのレースで兄弟で、お立ち台に上がったこともある。
オリジナルのハリスは、まさにTT600の完璧なレプリカで
フロントフオークはマルゾッキ38パイのマグネシウムボトムでリアサスは
フランス、ドカルボン、エンジンはノーマルだが
(のちにヘッドをハイコンプに交換)オイルをヘッドにまわすように
改造してあった。イギリス車らしく、ホイールはダイマグ、ブレーキは
ブレンボ4ポットだが耐久レース用の見たことのない
クイックリリースが着いていた。もちろん
ディスクはフローティングだ。たぶん開発当時のメーカー仕様、
そのままだと思う。
自分でも改造を繰り返した。フェニックスでのメンテから
友人であり太っ腹の根頭の不動産やが芝にバイクいじりの達人がいると聞いて
メンテしてもらったりした。
芝のSさんは今、ノートン専門店をやっている。
そしてフロントフオークはチェリアーニに、リヤサスはオーリンズ、キャブは
44パイのデロルトマロッシになっていた。

30才を過ぎた頃だ、なぜか熱がさめていった。
何故か?何故か?だ
引っ越しを繰り返し、川崎北部に移ってからはガレージの中で15年間
毛布にくるまり冬眠していた。
弟はハーレーの FX-1000を買い、またカスタムを繰り返していた。
そして、都内に戻った後の、2006年ネットで知った、
パンタマニアへ、どなどなしたのだ。

毎週行っていた、峠での思い出は忘れられない。
事故もけがもなく、楽しい思いでだけしかない。
きっとさらに大事にされて元気に走っていることでしょう。
だいすきだだったドカを乗り替え続けて最後に出会ったハリスパンタ。
ありがとう、最高の相棒でした。



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