too first to live too young to die
30年程前、勤め始めた頃、原宿はまだまだ静かだった。
じき、ロックンロール族やタケノコ族のようなカルチャー?が生まれた。
そんな公園方面のムーブと違い裏原宿(今より大きい範囲で)は
違った文化が生まれていた。
パンクムーブメントが嵐となり(多分新宿、原宿中心に吹いていた)
ファッションを中心に色々なカルチャーに大きな影響をあたえていた。
あの頃のパンクスはかっこよかった。(今のように太った奴はいなかった)
情報量が少ないのに、中身が濃いというか、芯を食っていた。
パンクではないが、リアルロンドンとアメリカンロックンロールを
ミックスしてた初期のクリームソーダもかっこよかった。
COZO COMPANYはカジュアルブランドだが、かなりパンクな感じで
PLASTICS(バンド)の中西氏(のちMELON)が作ってた
COZOのイメージイラストもパンキッシュだった。
大好きでしたCOZO。もちろんPLASTICSも大ファンでした。
そんなシーンの中、初期クリームソーダや後のスーパーセックス
(裏原宿にあってゴミ置き場にされてた)そしてCOZOのイメージは
ロンドンのショップ too first to live too young to die、
SEX、セディショナリーズ、ワールズエンド。
そう、あのビィビィアンのイメージからインスパイアされたものだ。
その前衛的なブランド達はショップや紙媒体のグラフィックで
ロンドンのアーティスト、ダギーフィールズのタッチをよく使ってた。
うまく表現できないんだが、まさにタッチ、そんな感じだった。
自分はポップアートに影響され、
グラフィックデザインに興味を持ったんだけど、
このダギーの世界観は、さらにポップな可能性を確信させてくれた。
バーニーズニューヨークでコムデギャルソンのカタログを手にし、
表紙がダギーで、あまりになつかしく、また、かっこいいんでびっくりした。
あの頃好きだったブランドや古着そしてインポートの服達は
たぶん今の自分にかなり関わってると思う。
もちろん、毎日、レコード屋に行って聴きまくってた、あの音楽達も。
そして毎晩遊んでくれた友人も。

Mr.Duggie fields
じき、ロックンロール族やタケノコ族のようなカルチャー?が生まれた。
そんな公園方面のムーブと違い裏原宿(今より大きい範囲で)は
違った文化が生まれていた。
パンクムーブメントが嵐となり(多分新宿、原宿中心に吹いていた)
ファッションを中心に色々なカルチャーに大きな影響をあたえていた。
あの頃のパンクスはかっこよかった。(今のように太った奴はいなかった)
情報量が少ないのに、中身が濃いというか、芯を食っていた。
パンクではないが、リアルロンドンとアメリカンロックンロールを
ミックスしてた初期のクリームソーダもかっこよかった。
COZO COMPANYはカジュアルブランドだが、かなりパンクな感じで
PLASTICS(バンド)の中西氏(のちMELON)が作ってた
COZOのイメージイラストもパンキッシュだった。
大好きでしたCOZO。もちろんPLASTICSも大ファンでした。
そんなシーンの中、初期クリームソーダや後のスーパーセックス
(裏原宿にあってゴミ置き場にされてた)そしてCOZOのイメージは
ロンドンのショップ too first to live too young to die、
SEX、セディショナリーズ、ワールズエンド。
そう、あのビィビィアンのイメージからインスパイアされたものだ。
その前衛的なブランド達はショップや紙媒体のグラフィックで
ロンドンのアーティスト、ダギーフィールズのタッチをよく使ってた。
うまく表現できないんだが、まさにタッチ、そんな感じだった。
自分はポップアートに影響され、
グラフィックデザインに興味を持ったんだけど、
このダギーの世界観は、さらにポップな可能性を確信させてくれた。
バーニーズニューヨークでコムデギャルソンのカタログを手にし、
表紙がダギーで、あまりになつかしく、また、かっこいいんでびっくりした。
あの頃好きだったブランドや古着そしてインポートの服達は
たぶん今の自分にかなり関わってると思う。
もちろん、毎日、レコード屋に行って聴きまくってた、あの音楽達も。
そして毎晩遊んでくれた友人も。

Mr.Duggie fields
雨の奥多摩
先月の24日に雪山チームと、奥多摩、御前山に登りました。
そして今日、第2回目はやはり奥多摩、大岳山に行ってきました。
雪山チームは今年、かなり登っていて、
海の日の三連休は泊まりで、秋田駒ヶ岳へいったそうです。
(ご一緒したかったんですが仕事でした-残念!)

なにがなんだかわかりませ~ん
7:44新宿発のホリデー快速奥多摩列車で御獄駅へ。
バスとケーブルカーを使って、約9時頃、御岳山より入山。
いやーなんか天気がどんよりしてたんですが、
まあもつかなーなんて、イージーに考えてました。
ちょうど12時頃山頂に着いて、ランチだったんですが、
なんか霧が出たなと思った瞬間、雨が降り出し・
と言うか雨の中に入った感じ。
もお、ドリフのコントなみにありえね~大雨で一瞬でずぶぬれ。
雨具に着替える間にドロドロになりました。
(ちなみに前回も途中から大雨、御前山の避難小屋で食事でした)
山頂から奥多摩湖へ向かう予定を急遽来た方の巻き道(近道)を使って戻り。
御岳山ケーブルカー駅14時頃着、本日の登坂終了です。
御獄駅近くの旅館で風呂を借りて、ちょー冷えたビールで乾杯。
いや~うまかった。

山頂近くの鎖場と雪山チーム
前回、今回とも大雨で、かなりいやになってますが、
奥多摩はあなどれないです。鎖場はあるし特に
斜度の高いところが多く、雨の下りはまじ歩きにくい。
たぶん、登山をするなら
トレーニングには最適ではないかと思います。
眺望は望めないんですが、自分を見つめ直せます。(あはは)
奥多摩3山、2座ゲットだぜ!

注:タヌキではありません
仕事の都合で夜の部には参加しませんでした。
西ポン、リエさん、ありがとう。来週は富士山らしいけど、
気をつけていってきて下さい。
我らも来月末頃には行ってきます。(予定)
そして今日、第2回目はやはり奥多摩、大岳山に行ってきました。
雪山チームは今年、かなり登っていて、
海の日の三連休は泊まりで、秋田駒ヶ岳へいったそうです。
(ご一緒したかったんですが仕事でした-残念!)

なにがなんだかわかりませ~ん
7:44新宿発のホリデー快速奥多摩列車で御獄駅へ。
バスとケーブルカーを使って、約9時頃、御岳山より入山。
いやーなんか天気がどんよりしてたんですが、
まあもつかなーなんて、イージーに考えてました。
ちょうど12時頃山頂に着いて、ランチだったんですが、
なんか霧が出たなと思った瞬間、雨が降り出し・
と言うか雨の中に入った感じ。
もお、ドリフのコントなみにありえね~大雨で一瞬でずぶぬれ。
雨具に着替える間にドロドロになりました。
(ちなみに前回も途中から大雨、御前山の避難小屋で食事でした)
山頂から奥多摩湖へ向かう予定を急遽来た方の巻き道(近道)を使って戻り。
御岳山ケーブルカー駅14時頃着、本日の登坂終了です。
御獄駅近くの旅館で風呂を借りて、ちょー冷えたビールで乾杯。
いや~うまかった。

山頂近くの鎖場と雪山チーム
前回、今回とも大雨で、かなりいやになってますが、
奥多摩はあなどれないです。鎖場はあるし特に
斜度の高いところが多く、雨の下りはまじ歩きにくい。
たぶん、登山をするなら
トレーニングには最適ではないかと思います。
眺望は望めないんですが、自分を見つめ直せます。(あはは)
奥多摩3山、2座ゲットだぜ!

注:タヌキではありません
仕事の都合で夜の部には参加しませんでした。
西ポン、リエさん、ありがとう。来週は富士山らしいけど、
気をつけていってきて下さい。
我らも来月末頃には行ってきます。(予定)
スピリチュアル、サタディ
今日、前からちょっと興味のあった賃貸マンションが公開していた。
といっても、関係者と学生がセミナーのようなことをしていて
一般公開はまだ先のよう、完成も来月末のようです。
見学希望とお願いしたら、名刺と引き換えに見せていただきました。
いやーびっくりな、モダンぶりで全6室かなりこっていて、
広々したルーフバルコニーがまるで空を切り取ったようだったり
水のはったバルコニーに部屋が浮いていたり、プールがあったりとかする。
基本はちょいロハスでほとんどの風呂関係はアウトドアだったりだ。
まあ、くわしくはブルータス等が紹介すると思います。
しかし、家賃の検討が全くつかないんですけど
もちろん借りる方も検討付かずですが、あまり生活感のない人だろうな。



bird park
このマンションお隣の一軒家の庭を借景してるんだけど
この一軒家もマジビックリな広さ。
ここ都内のかなり良いところなんだけど、いるね~資産家
そして本日のハイライト
スピリチュアルカウンセリング。
マイカウンセラーは青山の先生。若くてブッキラボー。でも信頼してます。
前に教えていただいた課題がクリアーしてました。
ほっとしてます。ありがとうございました。
(業務連絡:佐藤さん_写真解像度かえても大きさが変らないのは何故?)
といっても、関係者と学生がセミナーのようなことをしていて
一般公開はまだ先のよう、完成も来月末のようです。
見学希望とお願いしたら、名刺と引き換えに見せていただきました。
いやーびっくりな、モダンぶりで全6室かなりこっていて、
広々したルーフバルコニーがまるで空を切り取ったようだったり
水のはったバルコニーに部屋が浮いていたり、プールがあったりとかする。
基本はちょいロハスでほとんどの風呂関係はアウトドアだったりだ。
まあ、くわしくはブルータス等が紹介すると思います。
しかし、家賃の検討が全くつかないんですけど
もちろん借りる方も検討付かずですが、あまり生活感のない人だろうな。



bird park
このマンションお隣の一軒家の庭を借景してるんだけど
この一軒家もマジビックリな広さ。
ここ都内のかなり良いところなんだけど、いるね~資産家
そして本日のハイライト
スピリチュアルカウンセリング。
マイカウンセラーは青山の先生。若くてブッキラボー。でも信頼してます。
前に教えていただいた課題がクリアーしてました。
ほっとしてます。ありがとうございました。
(業務連絡:佐藤さん_写真解像度かえても大きさが変らないのは何故?)
0728_2007_スタート
これからの記録とこれまでの記憶を書き留めます。
今日は、午後にJ_カタログを印刷入稿しました。
アートディレクションを始めてから1か月以上かかった仕事です。
何故か忙しい方が、なにかとやるきが出るんですが、
突然思い付いてのブログ開始です。
時間を追いつめてやる気とアイデアをしぼるのはよく聞く話ですが
締め切り間際のパフォーマンスはあんまり威張れることではないですね。
これから、
日々の仕事や、趣味、思いついたこと、
そしてこれまでのことを整理して書いてみようと思います。
以下は今日入稿した、カタログの写真の一部です。

who ?
(このブログの書き込み欄にプレビューフォトが出て
構成しやすくなってるんだけど、何故か写真が文字表示になり、
うまくレイアウトできないんです。解決したら直します)
今日は、午後にJ_カタログを印刷入稿しました。
アートディレクションを始めてから1か月以上かかった仕事です。
何故か忙しい方が、なにかとやるきが出るんですが、
突然思い付いてのブログ開始です。
時間を追いつめてやる気とアイデアをしぼるのはよく聞く話ですが
締め切り間際のパフォーマンスはあんまり威張れることではないですね。
これから、
日々の仕事や、趣味、思いついたこと、
そしてこれまでのことを整理して書いてみようと思います。
以下は今日入稿した、カタログの写真の一部です。

who ?
(このブログの書き込み欄にプレビューフォトが出て
構成しやすくなってるんだけど、何故か写真が文字表示になり、
うまくレイアウトできないんです。解決したら直します)
diving a go go
ダイビングはK君が始めた。
まあ、彼は若かったが、つまらなさそうな仕事に追われていて、
プライベートには、つきあいたくないタイプだった。
それがある日、楽しそうに、アンド自慢げにダイビングの話をしたのだ。
ライセンスを取るためにスクールへ行ったこと。
始めて潜った海での景色等。
ふーん、って感じだったが、次第に興味を持ち出した。
なにしろ、自分もあまり仕事が楽しくなかったからだ。
この2回目に勤めた事務所は、もともと弟が参加していて、
新規制作物がレギュラーになるので手伝ってほしい-的な
感じで仕事を始めた。元いた事務所と全く違って
金融や、医療なんかの紙媒体が多く、
かなり戸惑いながら仕事をしていた。
あまりに集中できなかったので、
自分でアパレル関係の営業を始め、やがてやっと居場所を作っていった。
やがてK君がパラオに行ってブルーホールの話をした時は、
自分も海洋実習中だった。あっというまにライセンスを取った。
水道橋の事務所からほど近いM企画(出版社)に自ら連絡して、
編集や広告ページのレイアウトなんかも始めた。
これが自分のダイビングのキャリアを変えて行く。
TDさんという水中カメラマンと知り合い、
銀座のT社(写真、ツアー関係)の仕事を通して、
いろいろな所へ潜りに行った。
伊豆の大瀬崎や海洋公園がホームグラウンドで
海外にロケに出かけたりした。
もちろんギヤもこだわりまくった。
当時の最先端は、BCはジーグル、レギュレーターはシャーウッド、
ドライスーツにOSシステムとかだ。小物もこっていた。
当時、銀座のT社は水中カメラのハウジングを開発していて、
多くのプロが使っていた。すごく高価で、あこがれていた。
また、フィルムなもんで36枚取れば、チェンジしなくてはならない、
自分はTDさんのサブカメラを持ってアシストとかもしていた。
T社のKNさんには本当にお世話になりました。
よく大島に潜りに連れて行ってくれて、
スキルアップトレーニングしてもらいました。
(マジな体育系、遠泳とか、立ち泳ぎとか、させられた)
あの頃は、まじでインストラクター目指していて、
アシスタントインストラクターの実習までやったりしてた。
おかげで、館山の坂田
(ジャックマイヨールがよく来てたポイント)等に
ファンダイブに行くと水中での動きをイントラにほめられました。
まあ、あっというまに100本潜ったんで、一番いけてたときは
5mm のウェットで2Kgのウエイト。
OSのドライでも5Kgぐらいでで潜れた。(これは自慢です)
一番の思い出は、そのT社の広告仕事でTDさんとモルジブに行った時だ。
そこはカンドマフシってドイツ人ばかりの島で、(やすそ~なツアー)
すぐにドカーンと深いリーフがあって、
サービスのメニューもほとんどドリフトダイブだ。
ほとんど近場のスノーケリングで撮影はしていたのだが、
ナイトとファンで4本ぐらい潜った。
事件は最後にやってきた。
ガイドいわく15メーターぐらい潜ったら
キープして20分ぐらい皆で流れながら泳いで
上がると言っていた。8人ぐらいがどぼ~んして、
(やつらほんと大の字で飛び込んだりするんでびっくり)
我等は最後に両手にカメラでダイブした。
すぐ下7メーターぐらいでものすごい速い流れに巻き込まれた。
両手がふさがっているが、がんばって、
流されながらも15メーターほど降りた。
が誰もいない。もう一人ガイドが来ると思い、しょうがなく
マクロでちょっと撮影してたら、TD氏が上がろうとサインをだした。
もちろん一緒に上がりだ。で、さっきの7メートルあたり、
もう上を見たら流れが完全に見える。海の中の川なのだ。
ここで、時間は15分程たっているので、
TD氏は流れながら上がって行くとサインを出した。
そして二人で、はぐれないようにゆっくり上がって行った。
みごとに流された。ものすごく早く景色が流れた、かなり速い。
自然に、はぐれないよう輪になりお互いのカメラをつかんでいた。
この時は、さんごにつかまりたかったぐらいだ。
たぶん500メートルぐらい流れた思う。
で浮上したら、海のまっただ中に二人きりになってしまった。
自分はカメラを細引きにつなぎ手をフリーにして
レスキュー用のエアープォーンをならしたりしてみた。
そんなことを海上で約20分はしていたと思う。
TD氏は、さすがにあわてず、あと10分したらタンクをすてて
ゆっくり泳ごうかなんて言っていた。
やがて遠くに船が見えた。エアーフォーンが約に立った。
船に上がってみると全員流されて皆一緒にいたらしい。
流れに船はすぐに気づいて、エアーのあとを追ったそうだ。
自分達はあまりエアーを出さないのと、
二人なのでおいてきぼりだったらしい。
なんかドイツ人ケロケロしてる。こっちは半べそだ、
まじむかついた、が
よかった。ほんとよかった。恐かった。
やはり海外で、バディの浮上が速過ぎで
ゆっくり上がったら、おいてきぼりになったことがある、
が、ラグーンのような海であまり沖でなかったので恐くはなかった。
(この時は、皆近くに浮いてた、ボートもすぐ来てくれた)
だがこれは恐かった。一人じゃなくて良かった。
もう二度と体験したくない経験だ。
TDさんは、何度も個展の案内をくれたりして、
見に行ったりしていたが、今は疎遠になっている、
KNさんは広告代理店に転職してからあまりお会いしなくなり、
やはり疎遠にしている。お二人とも元気だろうか。
是非また、なつかしい話をしてみたいと思う。
あの、一年中真っ黒で、笑うと白い歯が光る、
友人達の顔がなつかしい。
まあ、彼は若かったが、つまらなさそうな仕事に追われていて、
プライベートには、つきあいたくないタイプだった。
それがある日、楽しそうに、アンド自慢げにダイビングの話をしたのだ。
ライセンスを取るためにスクールへ行ったこと。
始めて潜った海での景色等。
ふーん、って感じだったが、次第に興味を持ち出した。
なにしろ、自分もあまり仕事が楽しくなかったからだ。
この2回目に勤めた事務所は、もともと弟が参加していて、
新規制作物がレギュラーになるので手伝ってほしい-的な
感じで仕事を始めた。元いた事務所と全く違って
金融や、医療なんかの紙媒体が多く、
かなり戸惑いながら仕事をしていた。
あまりに集中できなかったので、
自分でアパレル関係の営業を始め、やがてやっと居場所を作っていった。
やがてK君がパラオに行ってブルーホールの話をした時は、
自分も海洋実習中だった。あっというまにライセンスを取った。
水道橋の事務所からほど近いM企画(出版社)に自ら連絡して、
編集や広告ページのレイアウトなんかも始めた。
これが自分のダイビングのキャリアを変えて行く。
TDさんという水中カメラマンと知り合い、
銀座のT社(写真、ツアー関係)の仕事を通して、
いろいろな所へ潜りに行った。
伊豆の大瀬崎や海洋公園がホームグラウンドで
海外にロケに出かけたりした。
もちろんギヤもこだわりまくった。
当時の最先端は、BCはジーグル、レギュレーターはシャーウッド、
ドライスーツにOSシステムとかだ。小物もこっていた。
当時、銀座のT社は水中カメラのハウジングを開発していて、
多くのプロが使っていた。すごく高価で、あこがれていた。
また、フィルムなもんで36枚取れば、チェンジしなくてはならない、
自分はTDさんのサブカメラを持ってアシストとかもしていた。
T社のKNさんには本当にお世話になりました。
よく大島に潜りに連れて行ってくれて、
スキルアップトレーニングしてもらいました。
(マジな体育系、遠泳とか、立ち泳ぎとか、させられた)
あの頃は、まじでインストラクター目指していて、
アシスタントインストラクターの実習までやったりしてた。
おかげで、館山の坂田
(ジャックマイヨールがよく来てたポイント)等に
ファンダイブに行くと水中での動きをイントラにほめられました。
まあ、あっというまに100本潜ったんで、一番いけてたときは
5mm のウェットで2Kgのウエイト。
OSのドライでも5Kgぐらいでで潜れた。(これは自慢です)
一番の思い出は、そのT社の広告仕事でTDさんとモルジブに行った時だ。
そこはカンドマフシってドイツ人ばかりの島で、(やすそ~なツアー)
すぐにドカーンと深いリーフがあって、
サービスのメニューもほとんどドリフトダイブだ。
ほとんど近場のスノーケリングで撮影はしていたのだが、
ナイトとファンで4本ぐらい潜った。
事件は最後にやってきた。
ガイドいわく15メーターぐらい潜ったら
キープして20分ぐらい皆で流れながら泳いで
上がると言っていた。8人ぐらいがどぼ~んして、
(やつらほんと大の字で飛び込んだりするんでびっくり)
我等は最後に両手にカメラでダイブした。
すぐ下7メーターぐらいでものすごい速い流れに巻き込まれた。
両手がふさがっているが、がんばって、
流されながらも15メーターほど降りた。
が誰もいない。もう一人ガイドが来ると思い、しょうがなく
マクロでちょっと撮影してたら、TD氏が上がろうとサインをだした。
もちろん一緒に上がりだ。で、さっきの7メートルあたり、
もう上を見たら流れが完全に見える。海の中の川なのだ。
ここで、時間は15分程たっているので、
TD氏は流れながら上がって行くとサインを出した。
そして二人で、はぐれないようにゆっくり上がって行った。
みごとに流された。ものすごく早く景色が流れた、かなり速い。
自然に、はぐれないよう輪になりお互いのカメラをつかんでいた。
この時は、さんごにつかまりたかったぐらいだ。
たぶん500メートルぐらい流れた思う。
で浮上したら、海のまっただ中に二人きりになってしまった。
自分はカメラを細引きにつなぎ手をフリーにして
レスキュー用のエアープォーンをならしたりしてみた。
そんなことを海上で約20分はしていたと思う。
TD氏は、さすがにあわてず、あと10分したらタンクをすてて
ゆっくり泳ごうかなんて言っていた。
やがて遠くに船が見えた。エアーフォーンが約に立った。
船に上がってみると全員流されて皆一緒にいたらしい。
流れに船はすぐに気づいて、エアーのあとを追ったそうだ。
自分達はあまりエアーを出さないのと、
二人なのでおいてきぼりだったらしい。
なんかドイツ人ケロケロしてる。こっちは半べそだ、
まじむかついた、が
よかった。ほんとよかった。恐かった。
やはり海外で、バディの浮上が速過ぎで
ゆっくり上がったら、おいてきぼりになったことがある、
が、ラグーンのような海であまり沖でなかったので恐くはなかった。
(この時は、皆近くに浮いてた、ボートもすぐ来てくれた)
だがこれは恐かった。一人じゃなくて良かった。
もう二度と体験したくない経験だ。
TDさんは、何度も個展の案内をくれたりして、
見に行ったりしていたが、今は疎遠になっている、
KNさんは広告代理店に転職してからあまりお会いしなくなり、
やはり疎遠にしている。お二人とも元気だろうか。
是非また、なつかしい話をしてみたいと思う。
あの、一年中真っ黒で、笑うと白い歯が光る、
友人達の顔がなつかしい。
dance dance dance _ climax
climax 六本木ヒルズ前、上海蟹で有名な中国飯店の隣、
地下1階にあったクラブだ。
ここに第2の青春があった。1979年?頃からの
ニューウエイブミュージック、そしてパンクムーヴは
自分のど真ん中に響き、進陶していた。
当時、雑誌でクラブの存在を知り
オープンしてすぐに行ってみたのだ。
ちょいメモ
それはずっっとずっと前のことだ、
太陽が赤くなる前の話だ?
(風の街。しってる?)
もとえ。この話は、
自分が20くらいから25-6くらいまでのことだ。
よく行ってた、霞町、西麻布のレッドシューズは
インクスティックやミントバー(共に龍土町)
と同じセックコーポレーションの経営。
(ロゴ創ったり、後の芝浦ファクトリーまで仕事してた、
クラブキングのチラシとかもやったねー)
六本木のカフェ・タバック、カプッチョは金子事務所の経営
(ロゴ創ったり、仕事してた)これは時代が違うよなー?
ええっと、 しょっちゅう、原宿とんちゃんに集合して、
23時頃から原宿モンクベリーや西麻布の328で踊って、
3時頃から千駄ヶ谷ライズバーにいってたのはだいぶ後からかな?
(いたね~、HF)
新宿2丁目からのメンバー?と合流して、
ファッションの話なんかしたな。
climaxは、設計と運営が大阪のパームカフェや
六本木のチャイナクラブ等を
手掛けていた事務所(さんぺいさん?)がやっていて、
大阪からスタッフが来ていた。
イノウエケンジはそのスタッフだったのだ。
(行方不明なのであえて実名)
彼は、当時西麻布の交差点近くに会社の寮があった。
(今、ライオンズ)
当時、自分は吉祥寺に住んでいたが、朝5時まで遊んで、
泊まらせてもらい、原宿の会社に出社していた。
ケンジはかっこよくて、男女問わずもてていた。
完璧なパンクスでジョンライドンに似ていて、
きたないかっこをしてたが、どこかロンドンぽい品もあった。
(太ったパンクス達に見せてやりたい)
大阪の友人に会いに行く時に、一緒に連れて行ってくれ
ディープな友人達を紹介してくれた。
(その後ピテカンで再会する友人とか)
あの頃の大阪はアメ村誕生期でちょー暑かった。
やがて、クラブはクローズし、
スタッフの皆と渋谷のレストランに移っていった。
ここではあまり一緒に遊んだりはしてない、
あまり趣味ではない、気取ったレストランだった。
彼はそのレストランもやめて行方不明になっていたが、
ある日突然、中目黒にアパートを借りるので
一緒に住まないかと連絡があった。
彼は、代官山のバーに勤めるので、
アパートを探していたらしい。
敷金もなくすがってきたのだ。
彼いわく、俺は20時から朝の6時まで仕事で
昼は寝てるから、入れ替わるので狭い部屋でいいだろうだ。
まあ、楽しそうなのと引っ越そうと思っていたので、
シェアをすることにした。
中目黒の居酒屋「00」の2階だ。
ケンジの勤めていた代官山のバー「スワミー」には
バーテンの神様I-KUさんがいた。
この人、後に白金00、青山のカイ、
西麻布の00と名店でバーテンを勤めた。
今はやはり西麻布でレストランを経営し、
ミュージシャンのサンデーさんと
幸せに暮らしているらしい。(アロハ)
スワミーはブティックの2階にあり夜だけオープンしていた。
彼は朝まで仕事をしてさらに女友達と飲みに行って
10時頃に帰ってくる生活をしていた。
そうそう、この頃は、芸能-女子とつきあってたな。
もちろん、週に2日は自分も飲みに行ってた。
この時はツケで飲ませてもらい、
めちゃくちゃ安くしてもらい、月末に払っていた。
I-KUさんのショットというオリジナルカクテルは絶品だった。
(最後はカイで飲ませてもらいました、ウマ!)
後、バー「枕」 で同じような絶品のカクテルに出会ったが、
この店もクローズしてしまう。
前後して原宿にピテカントロプスエレクトスがオープンする。
(KMさん、その後クラブキング始めたんだよね)
KR君という大阪の友人がオープンから勤めていて
ケンジもそこに移ると言っていた。
が、何故か、彼はニューヨークへ行った。
たぶん、その頃つきあっていた彼女が外人だったので
一緒に行ったのだろう。
自分も池尻大橋にアパートを移していた。
(3か月でオートバイと共に西荻窪に引っ越した
その後、何年か(3-4年程?)たち、
代官山のニューエイジ、レストランに
勤めると連絡があり、一度だけ遊びに行ったが、
なんか変な宗教を感じていやだった。
その後だいぶたってからそこもやめて、
やはりバーに勤めているので
遊びにきてくれと連絡があった。
それは、前出のモンクベリーや
モデルクラブのオムを経営している会社が始めた、
池尻のチェントコーゼというバーだ。
何度か行ったが、なんだかケンジもまじめに勤めていなく
自分もなんか距離を感じ、次第に足を遠ざけた。
何年も経ち、恵比寿のワインバーで
I-KUさんとレストランを一緒に立ち上げた
某あねごと知り合った。
その後I-KUさんとも偶然会い、ケンジの話をしたら、
やはり行方不明だった。
(I-KUさんはバリバリ元気だ・若!)
ケンジは何事に関しても、自由だった。本物の自由人だ。
こだわりはあるが執着しない、何も持たない主義だった。
あんな奴はめったにいない。
いつか、彼モデルにした小説を書き、映画化し、
岩井俊二さんに監督をお願いしよう。
地下1階にあったクラブだ。
ここに第2の青春があった。1979年?頃からの
ニューウエイブミュージック、そしてパンクムーヴは
自分のど真ん中に響き、進陶していた。
当時、雑誌でクラブの存在を知り
オープンしてすぐに行ってみたのだ。
ちょいメモ
それはずっっとずっと前のことだ、
太陽が赤くなる前の話だ?
(風の街。しってる?)
もとえ。この話は、
自分が20くらいから25-6くらいまでのことだ。
よく行ってた、霞町、西麻布のレッドシューズは
インクスティックやミントバー(共に龍土町)
と同じセックコーポレーションの経営。
(ロゴ創ったり、後の芝浦ファクトリーまで仕事してた、
クラブキングのチラシとかもやったねー)
六本木のカフェ・タバック、カプッチョは金子事務所の経営
(ロゴ創ったり、仕事してた)これは時代が違うよなー?
ええっと、 しょっちゅう、原宿とんちゃんに集合して、
23時頃から原宿モンクベリーや西麻布の328で踊って、
3時頃から千駄ヶ谷ライズバーにいってたのはだいぶ後からかな?
(いたね~、HF)
新宿2丁目からのメンバー?と合流して、
ファッションの話なんかしたな。
climaxは、設計と運営が大阪のパームカフェや
六本木のチャイナクラブ等を
手掛けていた事務所(さんぺいさん?)がやっていて、
大阪からスタッフが来ていた。
イノウエケンジはそのスタッフだったのだ。
(行方不明なのであえて実名)
彼は、当時西麻布の交差点近くに会社の寮があった。
(今、ライオンズ)
当時、自分は吉祥寺に住んでいたが、朝5時まで遊んで、
泊まらせてもらい、原宿の会社に出社していた。
ケンジはかっこよくて、男女問わずもてていた。
完璧なパンクスでジョンライドンに似ていて、
きたないかっこをしてたが、どこかロンドンぽい品もあった。
(太ったパンクス達に見せてやりたい)
大阪の友人に会いに行く時に、一緒に連れて行ってくれ
ディープな友人達を紹介してくれた。
(その後ピテカンで再会する友人とか)
あの頃の大阪はアメ村誕生期でちょー暑かった。
やがて、クラブはクローズし、
スタッフの皆と渋谷のレストランに移っていった。
ここではあまり一緒に遊んだりはしてない、
あまり趣味ではない、気取ったレストランだった。
彼はそのレストランもやめて行方不明になっていたが、
ある日突然、中目黒にアパートを借りるので
一緒に住まないかと連絡があった。
彼は、代官山のバーに勤めるので、
アパートを探していたらしい。
敷金もなくすがってきたのだ。
彼いわく、俺は20時から朝の6時まで仕事で
昼は寝てるから、入れ替わるので狭い部屋でいいだろうだ。
まあ、楽しそうなのと引っ越そうと思っていたので、
シェアをすることにした。
中目黒の居酒屋「00」の2階だ。
ケンジの勤めていた代官山のバー「スワミー」には
バーテンの神様I-KUさんがいた。
この人、後に白金00、青山のカイ、
西麻布の00と名店でバーテンを勤めた。
今はやはり西麻布でレストランを経営し、
ミュージシャンのサンデーさんと
幸せに暮らしているらしい。(アロハ)
スワミーはブティックの2階にあり夜だけオープンしていた。
彼は朝まで仕事をしてさらに女友達と飲みに行って
10時頃に帰ってくる生活をしていた。
そうそう、この頃は、芸能-女子とつきあってたな。
もちろん、週に2日は自分も飲みに行ってた。
この時はツケで飲ませてもらい、
めちゃくちゃ安くしてもらい、月末に払っていた。
I-KUさんのショットというオリジナルカクテルは絶品だった。
(最後はカイで飲ませてもらいました、ウマ!)
後、バー「枕」 で同じような絶品のカクテルに出会ったが、
この店もクローズしてしまう。
前後して原宿にピテカントロプスエレクトスがオープンする。
(KMさん、その後クラブキング始めたんだよね)
KR君という大阪の友人がオープンから勤めていて
ケンジもそこに移ると言っていた。
が、何故か、彼はニューヨークへ行った。
たぶん、その頃つきあっていた彼女が外人だったので
一緒に行ったのだろう。
自分も池尻大橋にアパートを移していた。
(3か月でオートバイと共に西荻窪に引っ越した
その後、何年か(3-4年程?)たち、
代官山のニューエイジ、レストランに
勤めると連絡があり、一度だけ遊びに行ったが、
なんか変な宗教を感じていやだった。
その後だいぶたってからそこもやめて、
やはりバーに勤めているので
遊びにきてくれと連絡があった。
それは、前出のモンクベリーや
モデルクラブのオムを経営している会社が始めた、
池尻のチェントコーゼというバーだ。
何度か行ったが、なんだかケンジもまじめに勤めていなく
自分もなんか距離を感じ、次第に足を遠ざけた。
何年も経ち、恵比寿のワインバーで
I-KUさんとレストランを一緒に立ち上げた
某あねごと知り合った。
その後I-KUさんとも偶然会い、ケンジの話をしたら、
やはり行方不明だった。
(I-KUさんはバリバリ元気だ・若!)
ケンジは何事に関しても、自由だった。本物の自由人だ。
こだわりはあるが執着しない、何も持たない主義だった。
あんな奴はめったにいない。
いつか、彼モデルにした小説を書き、映画化し、
岩井俊二さんに監督をお願いしよう。



