10月 25日  2020年

福島県での3日目は、
父が "連れて行きたい"
と言っていた半分ほどをクリアーしたものの、
流石というか、
既に方向音痴で充分、わたしも父も疲れていた。

父:「杏ちゃん、どっか行きたいところあるかえ?」
と、言う父の表情と声には
"休みたいなぁ "
が、漏れ出ていた。
し、わたしも情報過多で、脳みそシナプスはプスプスプスだったので、
私:「今日はええよ、疲れたし、家でゆっくりしよ、ギターの弦も張らなやし。」
と、
昨晩届いた、父の50年もののフォークギターの弦を、
張り直す事になった。

このギターは、わたしの物心ついた時から、
父が弾いていた、
さだまさしさんと、井上陽水さんと、長渕剛さん
の、コードブックも変わらず、
福島に持ってきていた。

2014年の 11月、とある事情で、帰郷が許されたわたしが、
実家で父のそのギターを見つけ、

父に、
私:「どうしてギター持って行ってないん? もったいないやん、持って行ったらいいのに。」
と、
埃まみれ、煤塗れ、弦は腐り切ったその父のアコギ を、福島に持ってゆくよう勧めたのだった。
その時 父は、
父:「ギター、、持って行ってもうるさいけん弾けんもん」
などと言っておきながら、
2016年には、いつのまにか、シレッと、
そのアコギと、ずっと昔からあったコードブック3冊を福島県に持っていっていた。

父は、昔から、
自称「シンガーソングライター」
とか言っていた。

そのアコギを、食後のリビングで、
お風呂から出て素っ裸の前、
ギターを抱え、我々家族の見るテレビの前で
まっぱで、狂ったようにギターをかき鳴らした。
それを見て、我々家族は、何も言わずにそれぞれの部屋へと捌けるのがよくある日常だった。

わたしが、ピアノの練習を始めると、
父や姉、たまに母も、
「うるさい、やめなさい、やめろ」
と、
言うくせに、父は狂ったようにギターを、全裸で弾くのだから、
わたしが初めて中学一年生の時に買ったギターは、
そんな父を見ていたので、
"あぁはなりたくない"だけがあり、
エレキか、アコギか、迷った挙句、エレアコを購入。
前知識もなかったわたしは、
ヤマハのエレアコを弾いて、先ず、
「これ、殆どアコギやん」
と、おもった。
とりあえず、周りに誰も教えてくれる人などおらず(父という存在は問題外)、
とりあえず、ギターを練習する為に、
わたしは父の、コードブックから、長渕剛さんを選んで、
「純恋歌」
から、練習を始めてみた。
そして、次に気づいたのは
「え。あー、これ、歌ありきやな」
だった。

わたしは、歌いたくないから、合唱でもピアノ伴奏に回っていたし、
もし、バンドを組んだら、ギターを弾きたいと思っていたし、
父に聞くこともしなかったし、バカだったので、
弾き語りというものを
せねばならないのか、、
と、結構残念だった。
ピアノを弾いていたので、簡単なコード、歌、を弾いてみたところで、
ベタにFでつまずき、数日で飽きたのだった。

話は戻って、
2020年 10月25 日 日曜日、
その日は家で ゆっくりするということで、
お昼前に
父がゴリ押しするお土産の、
「浪江焼きそば」を買いに
浪江町の道の駅まで行き、
そこでわたしは福島に来て、ようやく便意をもよおし、3日ぶりに便通再開を果たせた。

お土産用の名前焼きそばを買った後、
スーパーマーケットで、父が、
父の:「夜ご飯に、お父さんが本場の浪江焼きそば作っちゃるけん」
と、
大した事などしないのだが、スーパーで売っている浪江焼きそばを購入し、
その日はそのまま帰宅。

そして いざ、
一昨日(10月23日)にわたしが父のズレたチューニングを直していて切ってしまった6弦と、
全体の張りを直すべく、取り掛かった。

今回、切ってしまった弦は、
実は、父が、多分ギター購入時、それから、1回ほどしか張り直してない20〜30 年ぶりにチューナー も音叉も使わず、
勘だけで父が張り替えた弦で、
それは、わたしが今年の春頃、父がコロナで暇なので送ってきた
なんとも言えないキモい気持ちになりつつ見た、
父の弾き語りムービーを見る羽目になり、
私が
私:「ねぇ、ギターの弦張り替えた?」
と 訊いたところ、
やっぱり張り替えておらず、20〜30年張り替えていなかったので、
Amazonで、父に新しい弦を送ってみたのだった。

そして今回、また張り直すのだが、
6限以外にも、ズレとビビりもあったので、
一度全部弦を外し、そのほかもちょうどの張りにすべく、外した。
そして、弦を外してずっと悶々していた、
とにかく溜まりに溜まった埃のかたまり、すす、
穴の中も、フレットも、弦を外して掃除できるところを磨きに磨いた。

わたしは自分の家ではだらしがない感じだが、
人の家、人のもの に対しては、かなりちゃんとする。
それを見て父は、
父:「杏ちゃん(わたし)すごい掃除してくれるねえ 笑」
と、言っていたが、わたしは、
私:「こんな埃塗れやと音が曇るし、(わたし)、自分のギターの弦を他人に貸して切られることって、すっごい嫌なんよね。 それに、わりと、こういう作業好きなんよ、キャンバス張ったり、ギターの弦も。刀研ぐ感じ?というか。」
と、
手際良く 作業をしながら言うと
父:「そうかぁ 笑」
言って、見ていた。

ピカピカになったギターに、弦の長さを調整し直し、
全 父のアコギはもしかしたら半世紀程ぶりに、スタンダードチューニングで、
きっちりチューニングも、張りも、
はじめて完了されたかもしれない別人へと帰る事ができた。

そして、しばし、父とわたしでギターで遊んだ。
父はテキトーにアルペジオで、
わたしもテキトー。
わたしの予備のチューナー を1つ父にあげ、
スタンダードチューニングをどっかにメモで書いておいてと言うので、
音の仕組みとチューニングを画用紙にマッキーでわかりやすく書きおいた。
父は、
父:「まさか、杏ちゃん(わたし)と、ギターの話ができるとはなあ 笑」
と、
一応、喜んでくれているようだった。
が、
父の弾き語りを録画する勇気は、終始、わたしには出なかった。
父のギターは、わたしのものより少し分厚く、音が低くて大きい気がした。

昔からの度重なる転勤での団地暮らし等の名残りか、
隣接する家に気遣って、
ギターは、夕方5時まで と、父は決めているらしく、
夕方5時で、ギターは終わり、
その後、父が早くも夕飯を作りはじめた。

わたしは、
私:「なんか手伝おっか?」
と言うと、
台所の父は
父:「大丈夫、お父さんの浪江焼きそば、テレビでも観て待ちよって」
と、まぁまぁ きっしょいことを言うので、
テキトーに、テレビを観つつ、
『ちびまる子ちゃん』が始まった頃に夕飯が揃った。

福島餌県にきて、父の家で、なにかと濃ゆい茶色いものばかりを食べている。

わたしは久々にテレビで、ちびまるこちゃんを観ながら、
私:「今のちびまる子ちゃん、こんな感じなんや〜、やっぱ、初期とか漫画と比べると流石にぬるくはなるよね〜」
などと言っていると、
その日の1話目は、まるちゃんとともぞうが、防災訓練を家でやってしまう話で、
父とケタケタ笑いながら観ていると、
父が、
父:「お父さんも、こんなお爺ちゃんになりたいって思う」
と言い、
私:「え、マジ?なんで?」
と訊くと、
父:「まる子(孫)が、可愛いいて仕方なくてかわいい」
と言うので、わたしが、
私:「まぁ、、でも、ともぞう、結構ボケちょうで。」
と言うと、
父:「うん。かなりボケちょう」
と言っていた。

わたしが、
私:「そういえば、(我が妹)が、" 杏ちゃん(ワテ)とMちゃん(幼馴染み)って、まる子とたまちゃんみたい"って言うてた。」
と、言うと、
父:「どっちがたまちゃんぜぇ?笑」
と、
わたしが妹に言われた時と同じく、
また、親友のMちゃん本人に話した時のMちゃんとも同じく、
『どっちがたまちゃん?』
と、
何故だか、『どっちがまる子?』とならなかったのと同じ反応に、
わたしは ちょっっと、ムカつきつつ、
私:「Mちゃんがたまちゃんやって。」
と応えると、
Mちゃん同様、父もかなりウケていた。

食後、一服しながら、
父と、母の話をした。

父は、いつも、耳が腐るほどいつも、
父:「お母さん、ほんまに若い頃ものすんごい綺麗やったがで」
と言ってくる。
いつも言う。
本当にいつも言う。

その度、わたしは、
"それって今は・・・って意味で、褒めてるんかどうなんかなぁ?・・"
と、
女心に思う。

父の話では、福島に来たての頃、会社の自己紹介で、妻がものすごく美人だと自慢したらしい。

アホだ。。
更には、
父:「お母さんは男やったらお父さんよりずっと出世しちょったやろなぁ、」
などとも、ぼやく。
わたしは、
私:「まぁ、、どうやろ?」
と、ぼかす。

しかし、気を許したのか父は、初めて、
父:「でもよ、お母さん、ちょっとキツイでね。笑」
と、わたしに言ってきた。
わたしは、
私:「、、まぁね。笑」
と言うと、
父:「でも、そういう人を選んだのはお父さんやけんなぁ、苦笑」
と言うので、
私:「それはそうやけど、、」
と、
初めて、この人(我がアホの父)も、色々折り合いつかせて生きてるんだなぁ
とも思った。

次は父の仕事の話になり、
父:「若い士(わかいし)に仕事教えないかんけど、なかなか覚えんがよ、でもお父さんもほれ、文章書けんやん?
いっつも若い士に、"この文章では駄目ですよ"って言われるんよ、やけん、強く言えんしなぁ、」
言っていたので、
私:「ヒトが誰かにイライラするのって、自分が当たり前に出来るからなんやって。でも、誰にでもできることもできんこともあるんやから、イライラするうちは、自分もまだまだなんやって。バナナマンさんが言うてたの聞いて、ほんまそやなぁ〜って思うたよ。」
父:「確かに。」
私:「若い士の人たちも、お父さんのできん事を見て、お互いに補い合える関係に思える事ってあると思うよ」
と、流石にエンジェル過ぎる事を言いつつ、
わたしが、
いい歳こいて、なかなかのポンコツで、社会的にもやべぇほど虫ケラな人間であることを、
大きな心でイライラせずに居てくれという概念を植え付けている魂胆。


翌日(2020/10/26)は、とうとう福島県さよならの日だった。
宮城県、仙台空港の夜の便で、神戸空港へ帰る日。
仙台空港まで父が送ってくれるついでに、
飛行機までの時間、
父が行こう行こうと、ずっと、芭蕉の「あ〜、松島や、松島や」を連呼する(多分そこしか知らないから)
松島 に寄って、帰るということで、
(わたしは松島も知らなかったので、言えた口ではないが、血は争えぬという言葉がおぞましい)
福島県最後の夜も、
早く眠った。


     福島への旅  ⑧  へ 続く。

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2020/11/14
aune