「創造の写真劇」- 日本語版 43 預言者による戒め | 日本におけるJWの歴史を考察するサイト

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預言者による戒め

 

 

 聖書を他の書物とはっきりと異ならせているものの一つは、その正直さである。ダビデが王で、彼の家族が幾世代にもわたってその王座を継承したとしても、ウリヤと彼の妻に関する間違った行ないの詳細が隠されることはなかった。王が卑しく最も低い立場になったとしてもその悪行は完全に暴露されたのである。

 

 主の預言者は、神の命令によって直接王のもとに送られた。彼は、例えを用いて不公正を明らかにし、何が正しい決定であるかを尋ねた。ダビデは(例えの人物に対して)怒り、罰を与えられるであろうその不当な者の名を尋ねた。神の預言者は恐れなくこう語った。「あなたがその人です! 」。謙遜にも、王は主に対して罪を告白した。預言者は、彼の犯した大きな間違いをすでに分かっていた。しかし、その間違いを例えによりはっきりと際立たせたのである。ダビデは粗布で身を覆って灰の中に座り、主の前に許しを得るために泣きながら祈った。

 

 この点、ダビデは神の心にかなう人であった。彼が罪に陥り、自分の弱さに捕らわれた時はいつでも、罪を告白し、改心して許しを探し求めた。神はダビデ王の悔い改めを受け入れ、恵みを再び与えた。しかし、彼の犯した悪行に対する罰から逃れることは出来なかった。 「エホバは自分の愛する者を懲らしめられるからである」 - ヨブ 5:17、箴言 3:11,12.

 

 聖書が正直であることは、旧約と新約の両方の中で例示されている。我々は、神の友、アブラハムの失敗について読むことが出来る。また、使徒たちの間違いについても書かれている。著名な使徒ペテロは恐れに負けて、彼の主人を3度も誓いをもって否定した。また我々は、使徒ペテロがユダヤ人と異邦人の前で偽ったことも知っている。ユダ・イスカリオテに取って代った使徒である聖パウロは、かつてタルソスの残忍なサウロとして、聖ステファノを石打ちにしたものであり、初期のクリスチャンたちにとって非常に害となる者だった。聖ペテロと聖ヨハネについては「無学な普通の人であった」と書かれている。世界中のいかなる本も、これほど素晴らしく正直さを明らかにしているものはなく、聖書ほどの信頼に値する本はないのである。

 

 

私が天のことを考える時 -ダビデ

 

 

主は私の牧者 - ダビデ

 

 

失われた羊

 

 

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それにしてもダビデは、弱さを持ちながらも神に忠実を保った素晴らしい私たちの信仰の模範として登場していますが、現在であれば、姦淫と殺人を犯しており、排斥されて刑務所に送られることは間違いありません。過去のものみの塔では、ダビデが罪を犯した理由を次にように述べていました。

 

「ダビデがバテシバと罪を犯したことについていえば,すぐれた音楽家であった彼は,感動しやすい人であったことが考えられます。また詩人としてダビデは,創造の驚異と美を,豊かな表現でうたいあげています。ですから自然彼は女性美にも感動したのでしょう。アダムの子孫が全部そうであるように,ダビデも罪のうちに生まれた者でした」(ものみの塔 1973年9月1日 515ページ)

 

なかなか興味深い考察ですが、裁判で、「自分は美に対する感性が強いので、我慢できませんでした」とか、「女性美に感動したので・・・」という言い訳は通じないでしょう。しかし、その人生は、大胆さや勇敢さを兼ね備えながら苦しみや挫折も経験し、自分と家族に起きる不幸な出来事の中で信仰をよりどころにして必死に王として生きていくという壮大なドラマのようでもあります。

 

さて、ようやく「創造の写真劇」も半分が見えるところまで来ました。全部で96章ありますので、48章がちょうど半分になります。さらっと訳せばもっと進みが早くなりますが、翻訳の精度をかなり上げていますので、少々時間がかかっております。文章や言葉の使い方なども現代とは少し違っていますが、思ったほどではありません。同じ100年前でも、日本の100年前の本を読むよりは、まだ読みやすいかなと思います。

これから少しの間に、あの例の年や年代計算も登場します。またイエスが復活してからキリスト教が広まる1世紀のあと、普段は扱われない中世から近代までも言及されていて見どころも多くなります。早めに進めていけるように頑張ります。