年鑑 1929年 | 日本におけるJWの歴史を考察するサイト

日本におけるJWの歴史を考察するサイト

ブログの説明を入力します。

年鑑 1929年 (1928年の活動)

主は日本での業の上に恵みと祝福を明らかにしてくださいました。

日本で非常に多くの出版物が配布されることは期待することは出来ませんでしたが、それでも人々が、人間よりはるかに優れておられる方の助けが必要であるという事実に、気付き始めていることは明らかです。

貧しい階層の人々が集会に出席したり、また別の事柄から、人々には非常に大きな関心があることが明らかになってきました。昨年日本の人々は、洪水その他多くの災害に苦しめられており、本を買うお金を得ることすら大変な状況にあります。協会のお金で非常に多くの証言が行なわれており、そのことを私たちは主に感謝致します。

日本の業を監督した兄弟による報告は以下の通りです。

エホバ神と油注がれた王の名の下に挨拶を送ります。
主からの大きな喜びと素晴らしい祝福が与えられた一年が過ぎました。異邦人の国であるこの日本から、この年間報告を送ることを大変うれしく思います。神の恩寵によって、昨年中、すべての業は素晴らしい仕方で進歩しました。主の名の下における日本の活動(1927年9月~1928年9月)の結果は以下の通りです。

聖別された人々 : 22人
組織されたクラス : 2

巡礼の業 (巡礼者:1人)

公開集会の数 : 64
出席者の数 : 9,462人
クラス集会の数 : 253
クラス集会の出席者 : 4,344人
旅行したトータル距離数 : 27,866マイル
販売した本 : 1,242冊
販売した小冊子 : 3,927冊
販売した「ものみの塔」 : 6,827冊
販売した「黄金時代」 : 83,100冊
無料のパンフレット : 69,000枚
集会の案内ビラ : 1,075,000枚
集会で使うポスター : 4,350枚
集会宣伝のポスター : 390枚
新聞での宣伝回数 : 33回
野外奉仕者の数 : 75人
訪問した家 : 24,150軒
受け取った手紙 : 1,650枚
送った手紙 : 7,513枚

----------

明石順三が日本での活動を始めた翌年が1928年でした。山東省で起きた済南事件や満州に進出していた関東軍の参謀による「張作霖爆殺事件」が起きたのもこの年です。日本軍の中国での活動が活発化していき、国内での治安維持も強化されていきました。国内では、ラジオ体操や大相撲のラジオ放送が始まり、野口英世が5月に亡くなっています。ちなみにキリンレモンが最初に発売されたのもこの年です。明石順三が言及している洪水は、具体的にどの洪水なのかはわかりません。もしかしたら、九州北部豪雨による、九州・四国の被害のことかも知れません。

現在の献身とバプテスマのことを、当時は聖別 Consecration と呼んでいました。また、会衆は当時「クラス」と呼ばれていました。巡礼者と呼ばれた兄弟が、関心ある人たちを集めて、グループ単位で聖書を研究するようにしたのです。巡礼者とは、旅行する監督のことで、協会により任命されていました。当初は、聖書研究者たちでなるクラスに派遣され、信仰を築き上げる話を行なうことでした。

当時の巡礼者たちの生活がものみの塔2012年8/15号で詳しく取り上げられていました。

--「ものみの塔」誌が述べたとおり,巡礼者の訪問によって成し遂げられる「主要な善」は,信者の家での集会によって「信仰の家の者たち」を築き上げることでした。近くに住む聖書研究者たちが,講話や質問と答えの集会に出席しました。その後の時間は,もてなしに充てられました。モード・アボッドは子どもの頃,午前中の集会に出席した後,みんなと庭にある長いテーブルを囲みました。こう述べています。「ハムやフライドチキン,いろいろな種類のパン,パイやケーキなど,ご馳走がずらりと並んでいました。食べ放題でした。そして午後2時ぐらいに,また別の話があるので集まりました。でも,その頃にはみんな半分眠っていました」。巡礼者として長年奉仕したベンジャミン・バートンは,かつてこう述べました。「出された豪華な料理をすべて食べていたら,わたしはとうの昔に巡礼者としての生涯を終えていたことでしょう」。それで,ブルックリンの世界本部から手紙が送られました。もてなしの精神に富む姉妹たちは,巡礼者が「毎日,質素な食事」を取り,「熟睡」できるようにしてほしい,という内容の手紙です。
巡礼者たちは熟達した教え手で,図表や模型その他,何でも手元にあるものを使って分かりやすく説明しました。R・H・バーバーの話は「いつも霊的食欲をそそりました」。父親のようなW・J・ソーンは,「古代の族長のように」話しました。シールド・トゥートジャンはA型フォードで走行中,「止まって!」と叫んだかと思うと,車から飛び降り,野の花を摘んできました。そして,エホバの創造物から得られる教訓について仲間に即興で話しました。--

これはかなり初期の時代の巡礼者たちの様子です。ずいぶんのどかで自由な時代だったようですね。しかし、その後、ラザフォードの1922年の「宣伝し、宣伝し、宣伝しなさい」という大会での宣言の後、野外にの活動に力が入れられました。一部の人にとって大きな試みとなったのは、巡礼者の仕事の内容が変化したことでした。聖書の話をするよりも、家から家の活動に率先して参加することが求められるようになりました。1924年3月15日号は,真のクリスチャンの「主要な務めの一つは王国について証しすることである。巡礼者が遣わされるのはこの目的のためである」と述べました。こうして、組織の拡大路線が打ち出され、巡礼者たちはその尖兵として協会のために働くことになったとも言えるでしょう。

明石順三はまさにその目的で日本に遣わされ、その活動が報告にはっきりと表れています。黄金時代(現在の目ざめよ)がものみの塔の14倍近く配布されているのが興味深いですね。現在でも一般的な話題の目ざめよの方が配布しやすいですからね。かなりの出版物が配布され、多くの講演会が行なわれました。 前年の段階で75人の聖書研究生がおり、22人が聖別されたとはいえ、巡礼者として日本中を回っているのは明石一人だったことを考えると、かなり精力的に活動したことが分かります。まもなく、日本初のコルポーター(聖書頒布者)が登場することになりますが、さて、翌年((1930年 年鑑)はどのくらい数字が増加しているのでしょうか...。