● 伝えたいことのズレその3
前回の記事では、SNS上で起きたいざこざについて私なりに問題点を考えて解説をしていました。
その記事でも述べたように「相手の感性を尊重しつつ、後々に語りあう際により作品を楽しめるようになる」ということならば、布教の際にできる限り情報を絞りフラットな視点を維持したまま見てもらうのが最適解です。
今回問題になった解釈や思いを強く乗せた布教は、どちらかというのなら意思の統一というか、相手を自分の配下として意見を広めるのに役立つでしょう。
もしくは、これも前回の記事で述べていますが、作品を通して得た感想は一種の「作品」であり、自己表現とも言えます。
自己表現=自分を相手に受け入れてもらいたいというのは、ある種人間の根源に近い欲求でありだからこそ事細かに丁寧に、本筋との合致は別として「自らの解釈が過不足なく伝わる」ためにネタバレも厭わず解釈も混ぜ込んで伝えようとしてしまうのではないかと私は思うのです。
これはあくまで私自身の心情に合わせた解釈であることは断りを入れておきます。
私自身もネタバレを含めて情報量多く人に紹介することはあります。
それを自分なりに分析してみるとまず一つには「恐らく相手が紹介した作品を見ることがない」と判断した時です。
つまり、どうせ見ないだろうから細かく伝えた方が「自分がどう感動したか」を伝える方向に切り替えているんですね。
そう考えると、ネタバレ込みの紹介をしている時の私のゴールは「こういう感想を持っている自分を理解してもらいたい」という事になっているのです。
何かの良さを伝えるコミュニケーションで「相手の楽しみを尊重する」ことがゴールなのか「自分の思いを伝える」ことがゴールなのか、この「相手」と「自分」のどちらを重視するかで行動が変わる。
これは頭に入れておいた方が良いと思います。
ちなみにこの「相手」と「自分」の重視するもによる違いはプレゼンを受けた側にもあるにはあります。
もしゴールが「後々他の人とも問題になりそうな行動の矯正」であるならアプローチは違ったでしょう。
そこまでする意味があるのかというと話はまた別になりますが。
この辺りは過去の記事に書いたように「そこにこだわっても仕方がない」と思って流すのが最適なような気がしています。
私自身、何かを布教しようとしている時に勢い余ってネタバレを混ぜてしまいそうになることが良くありますし、ある意味グラデーションのようにどちらかだけという状況はありません。
ある意味その建前と本音の狭間で揺れるのが日本人にありがちなことだと思います。
自分を歪めてまで相手を尊重するのは良くないですが、何かを布教するにあたり「自分が語って気持ちよくなりたいのか」「相手にその人自身の視点で楽しんでもらいたいのか」を考えてみるのは大事なことだと思います。
