● 気付きは意味がない その2

 

 前回の記事は、最近なにかと耳にすることも多くなってきた「気付き」という言葉について話していました。

 

 前記の引きは武術の稽古などで行われる技をかけるという現象を例に上げて、その情報量の多さから容易ではないという話で、ではどうするかというところで終わっていました。

 

 同時に行う多種の動作を技に落とし込むかということで、感覚などを使って動作を抽象化するのです。

 

 これがいわゆるコツというやつですね。

 

 「掴まれた時に手を開くように力を入れて相手とのつながりを作る」とか、「掴まれた部分ではなく別のところ(手首を掴まれたなら肘など)を動かす」とかそういったものです。

 

 このコツを掴むというのもなかなか難しいもので、人によって体の動かし方の感覚やそれをどうやって言葉に表すかが違うため、言葉として伝わるコツをどうやって自分の中に落とし込むかが大事になるのです。

 

 その「自分に落とし込む」過程で自分の感覚と目的とする作用が一致したという現象が『気付き』と言えるのだと私は考えています。

 

 これはこれで非常に大事なことで、まずこの自分の感覚と目的とする作用の一致が無いことには技術の習得はありえないのです。

 

 ここにいわゆる0ー1の差があるわけですが、裏を返すとそれもまた一つの罠となります。

 

 それはこの『気付き』もまた途中の段階でしかないという事です。

 

 この『気付き』の感覚はいわばトリガーで、その感覚を手繰り寄せれば成功できるといえます。

 

 しかし、武術の実践においては状況がめまぐるしく変わる中でその感覚を探る余裕はないんですよね。

 

 日本人で日本語のヒアリングに問題はない人でも初めて聴いた曲を文字起こししろと言われて出来る人はいないのではないでしょうか。

 

 それに近いもので条件が揃えば問題なく出来ることでもその条件を揃えるということが難しく実践的に使えないということはあるのです。

 

 しかし、先ほども述べたように私の習う空手の師範は自由組手の中でもホイホイ技をかけてしまいます。

 

 では旦那芸までの人と実践での技の運用が出来る人の差がどこにあるかというのが「気付きの先まで落とし込めているか」というところなのです。

 

 「気付き」で得たトリガーを引くまでもなく「無意識」が自動で技を出すというところまでいかないと実践では使えないんですね。

 

 格ゲーで言えば、気付きで得た感覚は長いコマンドを打ち込んで出すようなものですが、無意識に落とし込めていればボタン一つで発動するようなものですね。

 

 そして、武術においてそういったコマンドを入れるような時間はまずないと思ったほうが良いということですね。

 

 長くなりましたが話をまとめると、今回のタイトル「気付きは意味がない」というのは言い換えると「気付きで満足していると武術的な実践には使えない」という意味なんですね。

 

 厳しい言葉とも言えますが、裏を返すとこれくらい言わないと先に進もうと思えないほどこの「気付き」を得た満足感は大きいともいえるのです。

 

 さらに言えば、気付きの感覚を無意識化すると体感として手ごたえがなくなります。

 

 過去の記事で気功について似たようなことを書きましたがそれとほぼ同じですね。

 

 

 気付きにこだわってしまうと役に立つ運用が出来ないため、こういった言い回しをされていますが、気付きそのものは無意識化するまでのプロセスとしてあったほうが良いです。

 

 こと武術においては、自分の動きは最小限の意識で動かせるようにしておかないと死につながるので特に注意が必要ですが、武術に限らずともハイパフォーマンスをしたければ無意識化は重要です。

 

 どのジャンルも気付きは大切にしつつ、それを捨てることを目指すくらいのつもりでやっていきましょう。