●アカデミー賞平手打ち事件から見えること 正義の多様性編 その2
前回の記事では日米の暴力観についてのおさらいと、文化に優劣はないものの、それが分かっていてももやもやするものがあるのではないかという問題提起をしました。
今回はそのもやもやの理由に迫っていきます。
なぜ違和感が生まれたかを深堀りしていった時に思い至ったのは、「価値観の相違が自分の思想(存在)の否定につながるのではないか」という不安と、「無意識下にある欧米文化への追従」というところでした。
元々私は「暴力とは別問題として侮辱にも言及があるべき」という風に考えていましたが、アメリカではそうでないらしいという情報が入ってくると「侮辱による精神的ダメージは暴力に劣るという認識が一般的なのか?」という疑念が生まれてきました。
この「一般的なのか?」という思考が結構な毒で、一般論と自分の思想に想定外のギャップを感じると「自分は疎外されるのではないか」という不安が出てきます。
そうなると本能的に自分の防衛を行おうとするので、過度な攻撃性を露わにしたり、筋道の通った話より自分に耳障りのよい話に飛びつくようになったりします。
そういった状態に陥ってしまうと厄介なのは、他者の話を聞き入れにくくなるので、正論は特に通じなくなるということですね。
SNS上で極論に走っていく人はこのパターンですね。
例えば「平手打ち事件に関しては侮辱した側が悪く、平手打ちは正しい行いだ」という極論を述べている人が居るとしましょう。
この意見に対してアメリカで一般的な「暴力を振るうほうが100%悪い」という思想は確かに相いれませんが、私の「暴力も悪いが侮辱も悪い」というのは、侮辱が悪いことだという点に関しては一致する見解です。
冷静な状況であればフラットに意見交換を行って一致する見解、反する見解について話して落としどころを見つけられますが、疎外感を元に極論を述べる状態に陥った人は一致する見解よりも反する見解に意識が向くので敵対ととられ、建設的な話し合いができなくなるのです。
このように「自分の考えが一般的でない」という見解は知らず知らずのうちに不安を煽るのですが、それに拍車をかけるのが「無意識下にある欧米文化への追従」です。
元々日本は国際社会に進出するにあたって「脱亜入欧」を掲げたり、第二次世界大戦後以降はアメリカに占領こそされていないものの、かなり価値観を植え付けられた形になります。
価値観が近づく事そのものは悪い事ではありませんが、先述の通り本来は文化に優劣は無いのですが成立にはそれぞれ理由があるわけで、歴史を共有していないと納得のいかない、相容れないものもあるのは当然です。
しかし、普通に生活していてそういう事にまで思考が及ぶ人は少ないのではないでしょうか。
私自身はそうだったのですが、「なんとなく欧米に前ならえ」という感じでいると今回の事件の日米の評価のギャップがなかなか大きな衝撃になるのです。
ちょっと悪い言い方をすると、欧米文化を「自分たちより優れた文化だ」というコンプレックスを持っているとこのようなことになってしまうのです。
正義=欧米の思想という観点になっていると危ないということです。
これが更に悪くなると絶対的な正義があるという誤認に至り、偏った思想に陥っても気付けなくなります。
そして、偏った思想同士をぶつけ合った結果はどちらかの思想の排除、弾圧であり、それは後々禍根を残しすので解決とは言えないのです。
まずは「自分の価値観はこうだ」ということを持ち、相手の価値観はフラットに受け止めるように心がけてください。
「よそはよそ、うちはうち」
意外とこの思想が大事です。
