● 科学以外の尺度 その2
前回の記事では現代社会に浸透している科学的な尺度はとは違う尺度で出来ている価値観もあるという話を東洋医療と西洋医療の観点で話をしました。
今回は他の例も交えて続きをお話します。
東西の医学のような互換性の無さは格闘技・武術の界隈でも顕著です。
実際の技に違いがあるというより、技の説明をする時に使う下地の概念が違う為に齟齬を感じやすいという事です。
ちょっと私がその書き込みの深さに感動した形意拳についての記事を共有します。
まず一般的なイメージとして伝統武術には気やら勁等一見すると神秘に包まれた表現がありますが、この記事ではだいぶ我々の持つ尺度に近い形で表現されています。
ここから読み取れるのは、我々が伝統武術に感じる神秘性は、あくまでそれを測る尺度を持ち合わせていないからそう感じるだけで、本来はスポーツ科学等と同じような積み重ねと理屈があるという事です。
もっと一般的に通じやすい所で尺度の違いが顕れるのは音楽かもしれません。
音楽理論という言葉は基本的に西洋で発展した理論体系を指して言われるものです。
この西洋の音楽理論というのも大元はキリスト教の音楽という文化がある物なので、厳密には科学的尺度とは違うのですが、感覚的に存在した音程を周波数で表現したりもするので、他の伝統的音楽よりは科学と親和性が高いと言えます。
POPsもジャズも、ロックもヘヴィメタも、現代作られる音楽のおよそ全てが西洋の音楽理論の上に成り立っていると言っても過言ではありません。
しかし、西洋の音楽理論に則さない民族に根差した音楽というのは数多あります。
それらの音楽は果たして劣っているかと言えば決してそういう事は無いと思います。
日本でも様々な音楽があります。
津軽三味線
雅楽
エイサー
太鼓
世界に目を向けると更に大量にあります。
好みは人それぞれですが、心に響くものは有るのではないでしょうか?
西洋の音楽理論は先にも述べた様にあくまで教会音楽を根源として、そこに理屈を重なっていった物とも言えるため、別の地域で同じように発展した音楽はその理論に則ていなくとも心に響くという事は普通にあるわけですね。
そういった地域の伝統音楽を素晴らしさを知り、自らの曲に落とし込んだ西洋の作曲家もたくさん居ます。
民族音楽の旋律やリズム感等の中で、西洋の音楽理論に上手く重なるような要素を抽出しているパターンもありますが、より民族音楽に寄せようとした結果大変な事になるパターンも山ほどあります。
以前の記事に書いたバルトーク等が顕著な例ですね。
もうあれは地獄でした(笑)
しかし、民族音楽を研究するバルトークは、そこまでしてでも表現したい物があったという事です。
長々語りましたが、結論を述べると、まず第一に自分が持つ尺度で測れないからと言って劣っているとは限らないという認識が大切です。
そして、自分の尺度で測れない物を無理矢理自分の尺度に落とし込もうとすると、物凄い労力が必要であり、そこを念頭に置かないと上っ面の判断しか出来ないという事です。
世界は広く、自分の尺度で測れない物はいくらでもある事を理解しておけば、違う尺度の人にあった時に簡単に分かりあえるという思い上がりなく接する事が出来、その気遣いが多様な価値観を尊重する事に繋がるのです。
自分と違う尺度の人には世界の広さの証だと思いましょう。