● 科学以外の尺度その1 

  

 今回の記事は他人の尺度と自分の尺度は違う可能性があり、しかし、その尺度の違いが優劣には繋がらないという事についてお伝えしたいと思います。  

 

 これはここ最近の記事の流れである「多様な考えを受け入れ、人間関係を円滑にする」上で役立つ概念なので、覚えておくと便利です。 

 

 「他人の尺度と自分の尺度は違う可能性があり、しかし、その尺度の違いが優劣には繋がらない」とはどういうことか? 

 

 まず最初にこの記事で言う尺度とは、要するに物事の正誤や価値を判断する基準になる概念です。 

 

 簡単な例をあげると以前の記事でいう雪国とそれ以外の地域の大雪対策への意識の違いが分かり易いでしょうか? 

 

 

 雪国の人の持つ尺度で言えばかなり優先度の上位に来る大雪対策が、別の地域に住む人の尺度ではかなり優先順位が低くなるというような話です。 

 

 今挙げた事例で言えば、尺度の違いが明確に地域の気候と連動するので、仮に雪国の人と別地域の尺度が違ったとしても、最悪住む場所を交換して一年も過ごせば実感をもってお互いの尺度の価値を受け入れられると思います。 

 

 しかし、これが実感を得られないような尺度の違いだった場合、自分の尺度と異なる物を見た時に「間違っている」とか「「劣っている」というように考えてしまいがちなのです。 

 

 その例として顕著なのが科学や西洋的な尺度と伝統や東洋的な尺度です。 

 

 医療や格闘技と武術、音楽等々、現代社会はではなんとなく「西洋的」や、「科学的」という事の方が優位に立っているイメージがあるのではないでしょうか? 

 

 普及度で言えば現代の文明を席巻しているのは確かに科学や西洋的な思想です。 

 

 その社会に適応して生きているために我々が正誤や価値を判断する尺度も科学・西洋思想に偏りがちです。 

 

 その尺度から見て異質に映る為になんとなくで伝統や東洋的な思想を下に見ている人は多い様な気がするのです。 

 

 例えば漢方医療等は現代では科学に基づいた通常医療の補助として扱われます。 

 

 では主と補助の関係だからといって漢方医療は充分な研究が為されていない劣った医学なのかというと決してそういう訳では無いのです。 

 

 漢方は漢方でその文化が根差す環境の中での症状や治療、薬効の知識の積み重ねはしっかりと行なわれています。 

 

 しかし、医療の発展の流れが根本的に違う通常医学とは視点が違い過ぎて、互換性がほぼ無いのです。 

 

 普及している通常医療の側からすると、その尺度でなんとか説明出来る物や危険性だけは排除出来そうなものしか利用できない為補助的なものとしての扱いしかできないという事ですね。 

 

 ここで「しかし、秦の始皇帝は水銀を不死の霊薬だと思って飲んで死んでいるから正しくない」という意見も出てくるかもしれません。

 

 それに関してはいわば試行錯誤の最中の失敗例だと思っていただければと思います。

 

 西洋の医学でも瀉血など現在では効果がないとされている物もあるので、そのたぐいということです。

 

 ちょっと長くなったので、他の例は次回の記事で説明します。