● 多様な価値観を尊重するための考え方その2
前回の記事では人の技術発展による交流の門戸の広がりに対して、人の能力が追いついていないという話をしました。
もう一つ懸念されるのは常識の先鋭化です。
これは人が今ほどの技術を手に入れていなかった時代を想像してもらうと分かり易いと思います。
交通手段がない時代で言えば、交流できる人は同じ地域に住む人に限られます。
同じ地域に住むという事は生活環境が近いわけで、常識や共通の認識を持つのは連携を取る上で大事になります。
例えば雪国で冬は大雪に見舞われる地域であれば、住民全員が危機感を共有した上で連携して対策を取る事は村の存続にかかわるレベルの重要性を持っています。
こういった雪国の対策というのはまさしくそういった地域では「常識」と言えます。
しかし、その地域を離れてしまえば、大雪の対策は一気に一般的な常識と言えるものではなくなります。
これが地域(コミュニティ)ごとに先鋭化した常識が生まれるという事です。
上記の様に常識とは「あるコミュニティでは絶対的な共通認識であるがそこを離れると一般的でなくなる可能性がある」意外とあやふやな概念なのです。
そして、この性質が実は非常に厄介で、自分の中で「常識」だと思い込んだ物を壊すのはかなり難しいです。
例えば交通網も情報網も発達していなかった時代は新天地への移動や異文化との接触は認識の上で大きな衝撃をもたらすものであり、その衝撃は常識を打ち壊すのに十分なエネルギーを持っていました。
しかし、現在は交通網も情報網も非常に発達しました。
日帰りで環境も文化も違う地域に簡単に行けるようになりましたし、もっと言えば家に居ながら国を超えて誰かと交流したり、情報を集められるようになりました。
これは自らの先鋭化した常識を壊す機会がないままに不用意に外部と接触出来てしまうという事で非常に危険です。
先に挙げた雪国で例えるなら、日帰りで行って本格的な大雪による災害を体感していない旅行者が半端な知識で「あの地域の大雪対策は過剰だ」と簡単に言えてしまうという事です。
勝手に雪が少ない地域の常識で雪国を判断したという事です。
ちょっと無理目な例えに見えた方も居るかもしれませんが、本当にこのレベルの事が簡単に起きる様になっています。
この不用意に外部と接触できる事の危険性は常識の先鋭化に気付きにくくなるという方面にも現れます。
先にも述べた「人が相互に認知しながら交流を持てる人数は数十人が限度」というのを真だとしましょう。
技術的な事を考えれば交通的にも情報的にもいくらでも遠くの物にアクセスできるようになりました。
しかし、結局人が扱えるのは数十人分の交流を保つ分の情報しか無いのです。
集める情報が下手にグローバルになっているからこそ、「自分が認識しているコミュニティの常識は普遍的な一般論だ」という固定観念が強くなりやすいのです。
現在の世界の人口は78億人を超えると言います。
計算しやすくするために、仮に相手と相互に認識して交流できる人数を78人と仮定しましょう(これも一緒に仕事が出来るレベルでの交流とするなら多い仮定だと思われます)
一人が交流できる人数はたったの0.000001%でしかないのです。
極論ですが、世の中にあふれる情報も人が作り出しているものである事を考えると、人は世界の情報の0.000001%しか認識できていないとも言えるのです。
極論なりにショック療法的にこの認識を持つ事は大事です。
自分が見えているのは世界の0.000001%でしかないという認識を持っていれば、「私が知る事が世界の常識だ」という思い上がりは無くなる筈です。
価値観の衝突は、お互いに普遍だと思っている常識がすれ違っている事が許容出来ない為に起こります。
自分が常識だと思う事が通用しなくても、お互いたった0.000001しか見えてない世界の常識がピンポイントで噛み合うわけがないと思えば受け入れやすくなるはずです。
技術躍進で世界は狭くなったようによく言われるようになりましたが、自分自身の認識に注目すれば、アクセスできる領域は増えたにも関わらず認識出来範囲は変わらないのでむしろ世界が広がったとも言えるのです。
広い世界で自分の狭い価値観だけを頼りにするのはやめましょう。
それが多様化社会の上手な生き方です。