さて、前回の記事では動画は情報が多いように見えて意外と少ないし、更に言うとその中ですら人は情報を拾いきれないという事を書きました。

 

 

 そうすると安易に「○○が出来ていない」と断じられるのは動画の少ない情報で全て理解したと思える視界の狭さを露呈している事と同義だということがわかると思います。

 

 例えばこの動画を見てください。

 

 

 空手の達人の突きをボディカメラで体感していますが、これも完璧な体感とは言えません。

 

 何故ならこういった反応しにくい突きには単体として起こりが見えづらいという要素の他に、受け手の注意が逸れる隙をつくという要素も入るからです。

 

 逆に言うとこの場合においては、目が利く人なら動画の方が反応しやすい可能性があります。

 

 動画だけで出来ている出来ていないを判断するという事はある意味そういった「無い情報」の重要性を最初から理解もしていないという事なのです。

 

 勿論こういった情報の足りなさは、出来ている部分を理解する事にも言える事ではあるのですが、実現実的な話をすると良い所を探す分には多少状況が変わってきます。

 

 これも先程の反応しにくい突きで考えてみましょう。

 

 本当は様々な要素が絡む相手が反応できない突きですが、話を単純化するために、「突く側の起こりの見えない動作の完成度」「受け手の隙に入り込む巧みさ」の二つの要素としてみます。

 

 最終的には「起こりの見えない動き」と「受け手の隙に入る」が合わさって「反応出来ない突き」が完成されるわけですが、先程の動画では「起こりの見えない動き」の情報だけは手に入る状況です。

 

 とすれば、動画の情報で「この突きの起こりは見えにくい」と判別出来たのであれば、その突きを自分が食らって反応できない可能性は高いと言えるでしょう。

 

 仮にこの動画を見て起こりの見えない動きが「出来ていない」と判断した人と「出来ている」と判断した人がいた場合、動画で拾えない「受け手の隙に入り込む巧みさ」が優れていてどちらも反応が出来なかったとします。

 

 どちらとも細かく見れば評価を誤っていると言えますが、「この突きに反応が出来るか否か」という命題に関しては前者の方が大きく外している事になるんですね。

 

 ちょっとややこしい話になってしまいましたが、あくまで動画で技を正確に理解する事は不可能にせよ、良いと思えた部分の評価に関してはそこまで大きく的外れな事にはなりにくいという事です。

 

 何より一番最初の話に戻って誰かが上げた動画にかけるコメントだとするならポジティブな事の方が好意的に受け止めてもらえますしね(笑)

 

 対人関係的な意味でも自己満足の方向でも、良いと思った事を声高に叫んだ方が良いのになあと思う今日この頃でした。