今回は私の中にある武術感という物を言語化してみようという試みの記事です。 

 

 このブログにでよく記事にしている様に、私は数多ある空手の流派のうちの一つに所属し、稽古を重ねています。 

 

 そして、遊びの範疇ではありますが自分の知識を基に他流派を分析して見るという事もしていました。 

 

 私の基本的な武術観としては、他流を分析する時は常にリスペクトの気持ちを持って、逆に言うとリスペクトがあれば個人の解釈に留める分には多少アクロバティックな発想を持っていても良いと考えています。 

 

 具体例を挙げると過去の記事に書いた方の比較等がそうなのですが、実際の所それぞれの流派がどの様に型を解釈し、指導しているかというよりも、私が所属する空手の理屈で言えばどう効果的なのかであったり、どの要素に着目しているから動作が変わったのだろうと予測してみたり、というような事を相手に聞かない代わりに好き勝手考えたりしているという事ですね。 

 

 

 私自身気を付けていますが、この辺りがだんだんマウント取りになってしまう危険性は常にありますし、自分ではそう思っていなくても他から見てそう受け取られてしまう可能性は大いにあります。 

 

 この記事なんかもろにそこを危惧して書きましたしね。 

 

 

 

 とはいえ、対外的な振る舞いに注意は必要ではあるものの、自分の所の流儀と他の流儀を比べてみるのは、意外と自分自身の流儀の理解に役立つ事もあると私は思っています。 

 

 そう思うのには私なりに根拠があって、それは、武術とは詰まる所人の身体をどう動かすかという事に尽きる為、共通要素は多いはずだと考えているからです。 

 

 こういった考え方を基に「他流派とは何か」と考えると、それは流派≒身体操作のフレームとも解釈できるのです。 

 

 フレームに関してはこちらの記事を参照してください。 

 

 

 厳密な話をするとそれぞれの流派によって想定する状況の違い、使う武器の違い等もある筈なので完全に同じものを別のフレームで見ているとは言えないのですが、それを言い始めると世の中の物が大概そうなってしまうので、全く同じという考えさえしなければ、近似的に解釈して良いと思います。 

 

 空手で言えば素手、又は棒と釵は一般的なので比較的類似性が高いですが、剣術となると使う武器が変わればまた前提とする戦法は変わってくるので、身体の動かし方は多少変わっては来るでしょう。 

 

 しかし、それでもパフォーマンスをするのは人の身体という所は変わりません。 

 

 大元を同じくする中で、何をどうするかの道筋の違いが一つ一つの武術の個性を出していくと考えると深みを感じます。 

 

 こう考えると武術の諸流派の違いは、いわばお酒のようなものだと考えられるなあという風に捉えているのが、私の武術観になりますね。 

 

 何を原料にするか、どんな製法で作るか、更に言えば気候や作り手の感性様々な要素で数多の酒が生まれ、そしてそこには優劣はありません。 

 

 アルコールが強ければ良いという訳でもありませんし、時には雑味も個性として受け入れられる事も有り得る。 

 

 武術も同じで自分にあった良さもあれば、個人の好みとしては合わない物もあるでしょう。 

 

 仮にどんな名のある賞を取った酒でも合わなければそれは相性の問題でしかないのと同じように、武術も権威ではなく自分が好きだと感じるもの、合う物を追い求め、そして自分と違う物を選んだ人に対しても、その人にとって自分と同じような愛を注ぐものがそこにあったんだと思うようにしましょう。 

 

 武術とお酒は似たるもの 

 

 我ながら結構良いマインドセットだと思います(笑)