先日オーケストラの練習がありました。
過去の記事に書いた私の苦手とする曲を演奏する団体です。
いやー、今回も中々難しかったですが、少しずつ前進している感覚もあります。
そんな中、また気付きがあったので書いていきたいと思います。
今回の気付きはこと西洋音楽に関して、素晴らしい演奏の為に意識と無意識を行ったり来たりする必要があるなというものです。
以前の記事に少し書いた内容で、この私が苦手とするタイプの曲達は、西洋の音楽理論とはまた違う成り立ちのものを、半ば無理矢理楽譜に落とし込んでいるのではないかという予測があります。
これは私見なりに全く根拠が無いわけではありません。
そもそも楽譜とは、簡単に行ってしまえば音楽に再現性を持たせる為に必要であり、その中でも西洋音楽で発展した記譜法は比較的汎用性が高い為に、クラシック音楽以外のジャンルでも用いられることが多いので、きっと私が苦手とするバルトークの曲もそういうことなのだろうという認識なのです。
しかし、音楽の成り立ちで考えれば、最初に音楽がありそれを書き留める為の記譜法なわけですね。
これが冒頭で述べた意識と無意識を行き来する事象の始まりとなります。
音楽理論が普及している近年においては、楽譜から先に作って音楽が出来るパターンもあるでしょうが、それ以前は自然発生というか、心地良かったり、かっこ良いと感じたり、感情を刺激するといった無意識の中にある音の並びを意識に上げる手段として楽譜が必要だったわけです。
因みに西洋音楽は感覚的なものを理論付けた後にそこから音楽を考察し、作るという発展も見せたので汎用性が高くなったのだと私は考えています。
このことについて興味深い話があります。
西洋音楽において音階と言えばドレミファソラシドがあり、更にその中で♯や♭を考えると、低いドから高いドまで半音で見ればほぼ均等の間隔で音が並ぶようになっています。
これが、沖縄民謡の音階だとドミファソシドという音階で全く均等でないんですね。
西洋音楽の枠組みで見ているから不自然に感じるのでは?というツッコミもありそうですが、それは一旦棚に上げて言いますと、この沖縄民謡の音階は要するに、この音楽が成立する上で心地良い音を拾い上げたらその音階しか必要なかったという事なんですね。
実際西洋音楽もその起源となりそうな教会音楽等においては、沖縄民謡と同じ様に特定の音の並びで十分であったようですが、様々な音楽が作られる上で、半音ずつのほぼ均等な並びが生まれたようです。
※ほぼ均等というのは、例えばハモリや短音階、長音階等で半音の区切りよりも微妙な高低を調整する事はあるからです。
ここまでがいわゆる音楽を楽譜に起こす上での意識と無意識の行き来の例ですが、実際今回のオーケストラの練習で楽譜から音楽を作る上での意識と無意識の行き来も体感しました。
過去の記事にも書いたように、バルトークの曲は5拍子があったり7拍子があったり、更にその中で何拍目に音を鳴らすかが目まぐるしく変わったりもするので非常に難しいです。
そういった曲を演奏する上では、とにかく頭の中で一定の速度で拍を刻み続ける事が重要になってきます。
これが書いてある譜面の内容を意識に上げる事ですね。
まずこれが相当に難しい…
しかし、この難解な課題も根気強く続けていくと、数えながらでも自然に演奏が出来るようになります。
この段階で一種の無意識化が始まっているのですが、この段階はいわゆる慣れという物です。
数える事と演奏のために身体を動かす感覚がアジャストするんですね。
そしてこれが更に発展すると数えている感覚が無くなります。
リズムのカウントが無意識に溶け込むと同時に、他のパートが演奏している中からリズムを取り出すことも出来るようになるわけです。
これが非常に高度な事で、練習初期の頭の中でリズムが全く数えられていない状況と、リズムを刻むことが無意識に溶け込んでいる状態には天と地ほどの差があるのです。
今回のオーケストラの練習でも、自然に身体が反応出来る部分もあれば、全く反応できない部分もありました。
意識と無意識の実感としてはいい体験でしたが、演奏としては全て無意識下に落とし込めるようになりたいものです。
まだまだ精進です。
