今回は学びの姿勢に関する結構重要な話です。
テーマは師の言葉を理解する上で大事な自発思考と言葉をそのまま受け取る事についてです。
師の言葉を解釈する上での自発思考に関してはまず、過去の記事を参照してください。
この記事にも書きましたが、まず最低限師(またはアドバイスをくれる人全般)と自分自身の視点が違う事を理解し、本質を見極め自分自身に落とし込もうとする努力は確実に必要です。
しかし、その自分に落とし込もうとする思考その物に、間違った解釈を生むリスクは潜んでいるのです。
これをまざまざと理解したのは、先日大学時代の先輩と呑んでいる時の事でした。
その先輩とはボディーワーク系の話というか、身体の上手い使い方などについてよく話していて、その時も手の感覚の話になりました。
手の感覚を鍛えるワークで、簡単ですがかなり効果的な手段で手を撫でるというものがあります。
触っている感覚、触られている感覚をしっかりと感じる事で意識がそこに向かうんですね。
そんなに変わった動作でもないので、私も話しながら何気なく手を撫でていたんですが、その時に先輩から
ちゃんと出来てない「指先の最後までしっかりやるように」
とアドバイスを受けたんですね。
確かにそうだなと思って、私は何の気なしに
そうですね、「丁寧にやります」
と返したんですね。
そして、自分なりに丁寧にワークを再開したらすぐに再び注意されたんです。
ほらやっぱり出来てない、指先がずっとおろそかなままだ。
変に言葉を変えずに言われた通り「最後までやって」
と
ハッとしましたね。
私自身としては、先輩の言葉を自分に落とし込もうと考えて言い換えたのですが、その結果要点を削り取っていたのです。
こうなったのにも色々な要因があるんですけどね。
酒の席だったので判断力が鈍っていた、というのも確かにあるでしょうし、元々指先の感覚が弱い状態だったので、認識に上がりづらかったというのもあるでしょう。
いずれにせよせっかくのアドバイスを無に帰しそうな事になっていたのです。
そして、この経験で教えを受ける時の落とし穴を学びました。
教えを自分の認識に落とし込むために思考を止めない事は確実に大事です。
しかし、その過程で言い換えによる意味の変化が起こるリスクがあることは認識しておかなくてはいけません。
自分に落とし込みやすい解釈を探す事と、言葉を変えずに受け取る事、一見矛盾がありそうな事ですが、これもバランスと言うか、考え方次第で解決は出来ます。
それは教わった事を解釈する時に、どこからが自分の思考なのかをきっちりと線引きする事です。
イメージとしては、パソコンで文書作成をする時に、引用元(教わった事)はそのまま残したコピーを作っておいて、注釈を入れる物は別で作るという事です。
割と社会人ならそういったデータの残し方をしている人は多いかもしれませんが、きっとそういう人ほど、軽い感覚で元データをそのまま加工してしまった時のリスクも分かると思います。
何かを学び、それが自分の身になっている気がしている時ほど、この自己解釈と教わった事の混同は起こりがちです。
長々書きましたが、ものすごく簡単に言ってしまうと
自分の解釈を常に精査する気構えと、初心に立ち返る基準を残しておく事
これが大事です。
思考を変えると過去の教えも違って見える事があります。
そんな時に正しく振り返る為にも、過去の教えもしっかり残しておきましょう。