前回の記事は説明が想像以上に長くなってしまいましたがようやく本題の抽象化を生かした二次創作の楽しみ方に移ります。

 

 

 既に前回の記事でピンと来た方も居ると思いますが、それぞれの物語は分かりやすい共通点が多いです。そこについて考えを巡らせていくとあたかも一つの世界観として繋げて考えることも出来そうです。

 

 勿論元が別の作品ですし、全く同じ世界感とするのには無理がありますが、あくまで二次創作ですし、せっかくなら想像力を大きく膨らませたほうが楽しいし思考力も上がります。誰かに押し付けるような事をしない限り大いに遊びましょう。

 

 

 最初に目に見える共通点としては主人公たちが相対する敵の性質でしょうか。

 

 ジョジョの奇妙な冒険においては石仮面の吸血鬼及び柱の男鬼滅の刃においては鬼舞辻無惨とその配下のたちです。

 

 共に日光を弱点としていることもそうですが、面白いことに柱の男吸血鬼無惨と配下のに覆せない差があるのも似ています。

 

 前回のあらすじには書き忘れてしまったのですが実は石仮面の吸血鬼にも絶対的な配下として屍生人(ゾンビ)がいます。

 

 もし、無惨の鬼化の描写がなければ、何らかの形で石仮面を被った日本の吸血鬼が無惨だったとするのもありなのですが、そこは二次創作なので想像する人の自由におまかせしようと思います。

 

 因みに私は超常存在としては同じだが来歴が違う言わば収斂進化の様な存在がいても良いなと思っているのであえてここでは繋げて考えてはいません。

 

 そして夜の眷属を狩る存在にも共通点がありますね。そう、呼吸法です。

 

 どちらも基礎的な身体の強さや特殊な能力で圧倒的な不利さを抱える人間がそれを覆すために作り上げた技術です。

 

 鬼滅の刃では呼吸法の使い手が集った組織として鬼殺隊が登場し、ジョジョにおいても本編では既に壊滅状態ではありますが、柱の男たちと戦う波紋の一族が存在していたことも似ています。

 

 

 さて、簡単に敵側、主人公側の共通点を挙げてみました。この抽象化したポイントから作品を分析していくことで、両作品を同じ世界と考えた時の整合性の取り方が見えてきます。

 

 まず始めに柱の男と吸血鬼そしてという存在が競合関係になることは無かったのか?という点で掘り下げてみましょう。

 

 基本的には柱の男と吸血鬼は人と家畜に近い関係なので競合も何も無いと言えばその通りなのですが、柱の男は2,000年周期で休眠に入ります。

 

 その間、石仮面の力を利用し人間を越えようとする野心的な存在も居たようです。ジョジョの作中ではアステカ文明に連なる一部族として描かれていて、状況としては他の時代にも同じ様な野心家は居てもおかしく無さそうです。

 

 由来が違う夜の眷属として競合しそうなのは鬼舞辻無惨ですが、柱の男や吸血鬼の活動していた南米とは地理的に隔たっている事もありますし、活動期間も平安時代から大正時代までと柱の男たちが休眠状態に入っている間に終わってしまったので直接関わることは無かったでしょう。

 

 圧倒的なラスボスとして君臨する柱の男たちと鬼舞辻無惨の邂逅は中々に心が躍る物ですが、それを実現するには多少の設定変更が避けて通れなくなってしまいます。

 

 それはそれで面白い二次創作にはなりそうですが今回は作中の描写通り柱の男たちとの邂逅は無かった事にしましょう。

 

 しかし、アステカ文明の吸血鬼やジョジョ第一部のラスボスであるディオとの邂逅の可能性はあってもおかしく有りません。

 

 ディオ無惨はその野望の大きさや、因縁を克服せんとする執念など似通っている所も多いです。

 

 また、ディオは種族としては柱の男に対して格落ちといえる吸血鬼ですが、その異常なカリスマ性や自らの肉体の研究を重ね、新しい技術の創出も行うなどして身につけた能力は柱の男たちに比肩するとは考えています。

 

 もし互いの世界観を崩さずに両者が邂逅した設定を付け加えるなら、ディオ無惨で両者の格に優劣をつけずに対比していくと面白くなると思います。

 

 次に鬼殺隊波紋の戦士といった夜の眷属への対抗勢力について考えてみましょう。

 

 というものは現実においても武術で重要視されつつも様々な門派で用法が微妙に違ったりするので、波紋の呼吸日の呼吸の類似性も同じ様なものだと考えれば受け入れやすいと思います。

 

 さらに設定を膨らませる為に両者の特徴の相違点にも目を向けると両者には物理的な威力の違い性質の違いが有ることが分かります。

 

 波紋の呼吸は作中の描写で一人分の力では常人を超える力を発揮するとはいえ煉瓦を破壊する程度の威力増加しか起きていません。

 

 対して鬼殺隊の使う呼吸法は作中で横転する列車の衝撃を和らげ乗客に一切死者を出さない等物理的な威力としては遥かに波紋を上回ります。

 

 この違いがどうして生まれたか、それに関して私は日輪刀の有無が関連すると考えれば話が繋がると思っています。

 

 太陽の力を溜め込んだ武器である日輪刀を前提として戦術を練るのであれば、その戦闘法は如何にして武器を当てるか、その威力を上げるかという理念で呼吸の力を運用します。

 

 対して日輪刀を作り出すことのなかった地域においては、夜の眷属への対抗手段として呼吸の力から太陽の力の似姿となるエネルギーを取り出すという運用が必要になった、それが波紋疾走という事です。

 

 こうして考えれば、単純な威力の大小で両者を比べるよりも性質の違いとして互いの格を落とさずに並び立てることが出来るのです。

 

 このように似たテーマ・設定を持つ作品からその要素を抽象化し、またその相違点について考えを巡らせ、繋げる為の流れを模索することで作品のさらなる理解にも繋がりますし、楽しみ方の幅も広がります。

 

 惜しむらくはこの記事の基本方針であるなるべく両作品の設定を変えないというルールだとそれぞれの作品の主人公は出会うことが出来ないという事です。

 

 第一部の主人公ジョナサン鬼滅の刃本編の大正時代には既に故人ですし、その孫のジョセフは下手をすると生まれていない可能性すらあります。

 

 これに関してはあくまで二次創作の話なので考える場合は皆様の想像力におまかせします。

 

 個人的な発想では一部のラストで激戦の末決着がつかなかった事にすればディオを追うジョナサン炭治郎の邂逅はありそうだし、とても心踊る展開が期待できそうです。

 

 かなり長くなってしまいましたが、この様な半分お遊びのような自分の楽しみ方の延長線上で抽象化の技術を磨くことも出来ますので気が向いたら是非やってみてください。