二回連続で空手記事です。今回は直接的な技法の話ではなく、かつてあった空手の達人の有り様から個の高め方に活かせる考え方を見出したのでそれをお伝えします。

 

 流派とは大辞林によると

技芸・芸術などで、方法・様式・主義などの違いから区別される、それぞれの系統

 と説明されています。

 

 真偽に関しては怪しい情報ですが、日本の武術に関する流派の始まりは神官や僧侶が興したものとも言われています。

 

 真偽が怪しいのに何故紹介したかと言えば、そこに合理性も感じるためです。神官や僧侶は教義の説法や儀式の運営等で、武術に関して以外にも技術の体系化や様式を纏める事に長けています。流派として組織化する為の下地があったということです。

 

 意外なことに剣術等が流派として成立するのは戦国の時代ではなくその後の時代の方が多かったようです。

 

 その要因としては戦場では剣や槍など1つの武器を扱うのではないため、1つ1つの体系化はされずに兵法として総合的な扱いをされていたことや戦時直下では訓練する時間も無いし、下手に技術を他者に教えて寝首をかかれるリスクもあったためだと思われます。

 

 勿論戦国時代中に既に確立されている武術もあるようです。しかし、現在残る剣術等の流派は戦乱の中で芽吹きつつ、その後にある程度の平和の中、次の戦乱に備えるという意味合いもあって成立したようです。

 

 名だたる流派は戦国の時代を生き抜いた武士たちに、戦場での生き抜く方策を学ぶために門下生が集まることで形成されたのです。

 

 対して空手における技術の伝承はどのように行われたのでしょうか?

 

 以前に書いた記事でも少し触れていますが、空手で流派名がつくようになったのは本土に入ってきた時期です。

 

 考えようによっては既に本土で武術=流派があるもの・という認識が一般化されていたため、馴染みやすくするためにつけられたという事になります。

 

 それまでの沖縄では各地域に達人がいて門下生は比較的自由に様々な師について鍛錬を行っていたようです。

 

 先程紹介した記事には流派では無いが首里手、泊手、那覇手というような地域差があったとは書いてありますが、実際の所各地の地名は現在の沖縄では3つとも那覇市です。

 

 勿論交通の便も今ほどは良くないでしょうし、違いは生まれてはいたでしょうが物凄い隔たりがあるわけでは無いことはイメージできると思います。

 

 この状況の面白いところは技術の伝承が比較的横にも広がりやすいということでもあります。一人の師のみについていくパターンも勿論ありますが、他の師の教えに触れ新しい解釈を作ることも出来るのです。

 

 余談ですが、現在空手という大きな括りで見れば型は数十種類ありますが、元々沖縄の達人は型は多くて4〜5、しかしそれらを徹底して身につけるという事だったそうです。同じ型でも達人の名を冠した一種の派生系の型もあります。

 

 それぞれの達人が、多くの師や仲間との研究で自らに最適化した空手、そして指導法を持ち、それをまた下の世代がそれぞれの達人から自分なりに要素を取り出し、最適化する。これが沖縄での技術伝承だったのです。

 

 念の為断っておきますが、これは本土での流派の形成状況を批判する物ではありません

 

 むしろ本土でもそれこそ流派の開祖になるような人は様々な師について技術を抽出したりもしているのです。

 

 話を戻すと沖縄の空手は流派の考えに当てはめるなら、学んだ一人一人が個人に最適化された流派の開祖であるとも言えるのです。

 

 この考え方は下手をすると増長を招くので難しい所でもあります。しかし、自らの行動に自信を持ったり責任を持つには大切な考えです。心の片隅にでも置いておくようにしてみてください。