5月の半ばからこのブログを始め、早いもので記事も40個近くなります。まだまだですが最初の頃よりは文章を書くのにも慣れ、テーマ決めもかなり簡単になってきました。後に記事にするぞという気持ちで周りを見ることで視界が広がるということもあるのだと思います。

 

 ブログという形に限らず絵や歌、会話や最近では動画配信と行った形もありますが、アウトプットするということはかなり大事なことです。何か得た経験やそれによって生じた気づき等を自分の外に出すことによって他者に新たな視点を与えるというだけではなく、自分自身もより理解が進むからです。

 

 他者への新たな視点とは、同じものを見たとしても全く同じ感情の想起や情報の気づきは起こり得ないと言うことです。以前書いたブルーインパルスの記事が最も説明しやすい具体例でしょうか。ブルーインパルスに関しての思いは賛否も含め様々でしょうが、私にとっては祖父との思い出でありその経験は私の中にしかありません。これは一種の例で同じ物を見たとしても人によってバックボーンが違うことから見え方が違うとということはご理解いただけるかと思います。

 

 「私の祖父」という話だと余りにも具体性が高すぎて共感は得られないかと思います。しかし、その話を通して内容が読み手によって抽象化され、「その方の祖父との思い出」だったり、「家族との思い出が深い物事」が想起されるならばそこにまた新しい思考の種が蒔かれ、精神的な豊かさに繋がっていきます。

 

 自分自身の理解が進むということは自らの中にある物を何らかの形で表現する際に、自らの注目するポイントだけでなく客観的にどう見えるか、普段自分では見えていない部分まで作り込む必要が出てくるため、結果として思考の中にバラバラに要素が散らばっている状態よりも強固な理解が得られる筈だと言うことです。

 

 漫画や映画等にもよく師弟関係を通して師が新たな境地に至るというような物がありますがそれは現実でもその通りなのです。伝わり辛いかも知れないのでまた先程のブルーインパルスを例に説明します。

 私にとってブルーインパルスを祖父と見に行った思い出は体感としてある物です。しかしそれは自らの記憶にある雑多な感覚の一つともいえ、ともすれば細かい記憶も確かに自分の中にはあるのだけど、断片化して散らばっているような状態です。

 

 これを人に「真剣に」伝えようと思ったらかなり大変です。前述した通り同じ事象を見聞きしても人によっては得る情報が変わる訳ですから、出来る限りはっきりとした情景を思い浮かべてのディティールをしっかりと表現しないといけない訳です。そうすると必然的に断片化されていた記憶を拾い集め、客観的に伝わりやすい様に多角的に見直しながら組み上げる事になるのです。そうすれば自分の中にある思い出がより輝いた物へと変化するのです。

 

 このようにアウトプットをするということは確かに労力は要しますがそれに勝る利点がたくさんあるのです!

 

 

 …とここまで書きましたが今回の記事では反省も書かなくてはいけません。

 

 記事のネタを3本程無くしました

 完全な中だるみというやつですね…ブログを書き始めた当初はネタになりそうなことをスマホのメモに箇条書きでも書くようにして、その時考えていたことを残していたんです。最近視野も広がりネタも見つけやすくなっていたので完全に油断してメモを残さないでいたのです。amazarashiの様な結構重ための内容の記事を書いた後にふと気付いてしまったんです。次何書こうとしてたんだっけ?

 

 結構いいネタだった記憶があるんです。でももうそれは断片化されてしまい自分の記憶の中に散逸してしまいました。

 記事にしようとする様な内容なのでまたいつか掘り起こされるような可能性はあります。しかし現状その記憶が蘇るような気配は一切ありません。

 

 この様な悲劇を皆さんも起こさない様にしっかり肝に命じておいてください。

 大事な記憶ほどアウトプットしましょう