第5章 番台の境界1 | 穴吹 圭のブログ

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日常の話、コミュニケーション、外国語習得法などを



中心に、小学生から大学生まで幅広く教育のあり方を



考えます。



教育についてはこれまでの経験を活かし、実際に役に



立つ内容を読者と一緒に掘り下げていきたいと思います。

 人は、コーヒーからゆっくり立ち上がる湯けむりを見る

と、いったい何を感じるのだろうか。


 多分湯けむりそのものより、芳しい香りを楽しみ、それ

を片手に会話が弾むものと思われる。


 しかし、伸介は少し他と事情が違っていた。それを見

ると、香りの背後に浴槽の記憶が見えてくるのだ。


 これは他人には決してわからない不思議な現象だ

といえる。


 浴槽から立ち上る本物の湯けむりは、伸介にとって

少年期を過ごした生活空間そのものだったのである。


 だから、コーヒーの湯けむりとはいえ、その陰影は

伸介にとって、単にコーヒーの香を豊かにする要素と

ならなかった。
 
 芳しいはずの湯けむりは、むしろ過去の記憶と直接

結びつく発火点となる。


 それは蝋燭の火のように、炎心から外に向かって明

かりがゆらゆらと灯っているようなものだった。


 その炎心の中には番台が見え、自分が情けない顔

をしてじっと座っている。


 風呂屋の番台というのは、よく考えてみると不思議な

場所だった。入り口の暖簾(のれん)をくぐると、男湯と

女湯に分かれ、中に入ると必ず番台がある。


 ここで入浴料を払うのだが、これは関所のようなもの

と考えればいい。


 番台で一番神経を使うのは、みんな気持ちよく風呂

が使えるように気を配ることである。


 客は体を綺麗にするためにだけ風呂屋に来るわけで

はないのだ


 当時、娯楽の少なかった各家庭では、一日の疲れを

洗い流す風呂屋が楽しい語りの場だった。


 大人たちは湯に浸かりながら、世間話に花を咲かせ

ては笑っている。だから、近所の人は毎晩のようにお

風呂に浸かりたがった。


 松葉湯の番台は、普段はお袋が座る場所だったが、

彼女もけっこう出たがり屋で、家を留守にすることが多

かった。


 学校のPTAの役員をやっていたせいか、しょっちゅう

学校に出かけていた。姉兄が優秀だったこともあり、

学校でも誇らしげに活動していたようだ。


 おまけに○×婦人会の役員もやっていて、一週間に

一~二度は決まったように番台を留守にする。


 だいたいお昼から夕方ごろまで出かけるのは、その

時間帯には入浴客がまだあまり入っていないからだ。


 伸介が番台に座る日は、3時ごろに学校から帰らな

ればならず、それがイヤで堪らなかった。


 小学6年生といえば、もう異性の女性客を意識する

ころで、年配者のときはいいが、同級生の女の子が

親と一緒に入って来たりすると、ドギマギしてしまうの

だった。
 
 相手だってイヤなのは当然で、こんなときは急いで

番台から飛び降りる。そして、男湯の脱衣場から手を

伸ばして入浴料をもらうことにしていた。


 するとたいていの母親はクスクスと笑いながらお金を

手の平に載せてくれる。だが、伸介は恥ずかしくて耳

まで真っ赤になってお金を受け取るだけだった。


 そんな伸介の気持ちを知ってか知らずか、お袋は相

変わらず伸介に店番を頼んでは外出した。


 「伸ちゃん、今日、学校に用事があるから、番台、頼

んだよ」
 「ええ?どうして?今日友達と遊ぶ約束しとるがい

ちゃ」
 「そんなの明日にすればいいじゃない」
 「イヤだよ。オレ帰らないからね」
 「生意気言ってんじゃないの」
 「母ちゃんずるい。姉ちゃんに頼んでよ」
 「姉ちゃんは部活で忙しいんだって」
 「じゃ、兄ちゃんは?」
 「兄ちゃんは今日委員会なんだって」
 「ウソだい。もう帰って来てるよ」
 「そう?じゃ勉強でもしてんじゃない?」
 「じゃ、おれも勉強するちゃ!」
 「何の?マンガの勉強かい?」


 お袋は、ハナからてんで相手にしてくれない。口では

絶対にかなわないので、結局は番台に座らされてしま

う。


 いくら抵抗しよとしても話しにならない。伸介はいつも

これでギブアップしてしまうのだった。


→「第5章 番台の境界2」に続く


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