美醜観について
清張は調べることが生じると、徹底的に、しかも綿密に
調べなければ気の済まない性格だった。
だから、前回女性美についてのいくつかの表現を上げ
たが、いろいろと調べた結果を本文に入れていることが
よくわかる。
少し長くなるが、阿刀田高編集の『ガラスの城』(中央
公論社、松本清張小説セレクション9)から、その部分を
引用してみたい。
「いったい、美とはなんであるか。醜とはなんであろうか。
わたしは美に関するさまざまな本をよんだ。美学も、
哲学も。……それから、いわゆる文化人の書いた教養
書の中にもそれをさがした。
しかし、決定的にわたしの心をなっとくさせるものはな
かった。
結局、どの本にも美醜の関係はきわめてまわりくどい
あいまいな記述しかなかった。ひどい書になると、美を
最上の価値におくと同時に、醜にたいしては精神的な
宥和(ゆうわ)をこころみている。たぶん、著者は、読者
の中に美しくない女のいることを意識したからかもしれ
ない。言葉は最高に思想的であり、美学的であり、哲
学的でだが、ただよむ者は抽象的な言葉の迷路にふみ
こむだけであった。
結局、美にたいして醜は対立するものであり、美は
幸福な雰囲気にとりまかれている。これにたしし、醜は
たえず不幸な中に孤立し、自分自身からもつきはなされ
てうづくまっている、-としかおもえない。
ことに会社などどいう共同生活の中では、女性におけ
る美の優位は決定的であり、醜の劣勢も決定的である。
なかには、美の白痴をわらい、醜に理性によって克と
うとする女がないでもない。たとえすぐれた教養をもち、
知識があっても、「醜」の蔑視はゆるぎようもない。
現に、この小さな課内だけでも、見るがいい、的場郁
子や、村瀬百代の横には、仕事いがい、だれも寄りつ
こうとしないではないか。」
…とまあ、こように書かれているが、ずいぶん辛らつ
な女性評となっており、清張の女性の美醜に対する考
えがわかって興味深い。
清張は好奇心が旺盛だったのであろうか、なにかに
興味をもつと、自分が納得できるまで調べたようだ。
その結果、専門家が読んでも、疑問が起きないよう
に配慮して書いていたことが知られる。
かの司馬遼太郎も何か調べることがあると、神田の
古本屋に出かけ、ダンボールに一杯になるほど本を
買い込んで帰ったという話が残っている。
このように作家と呼ばれる人たちは、何か共通する
ような「拘り」の精神をもっているのかもしれない。
