私が質屋業界に入った頃、質屋の長老と言うか大先輩からお聞きしたお話しに、
『関東大震災や横浜大空襲で、横浜の街が焼野原になってしまった後でも、質屋の
蔵だけは焼け残り、お客様からお預かりした品物を保管しておくことが出来た、
家も家族も失った被災者の人達は、亡き人の着物を手に取り涙したものだ・・・』
というお話しです。確かに空襲や震災の写真を見ると、焼野原の中のあちらこちらに蔵だけが立って残っています。
質屋に限らず、室町時代の昔から、蔵というのは徹底した耐火建築物であり、爆弾が直撃すればともかく、焼夷弾による火災ぐらいでは焼け落ちるものではないのでしょう。広島の惨状だけが他の都市の空襲後の写真と違うのは蔵が残ってないということ。つまり蔵というのは、核爆弾を落とされない限り、空襲にも耐えられるということです。
その耐火建築物の扉は厚さ十数センチの鋼鉄製、中にはネズミ返しと言う太い針金で編まれた網が付いた木製ドアがついています。
ただし、この鋼鉄製のドアは重いし頑丈なのですが、70年も使った当店のドアは自重で沈み、閉めるためにはかなりの力とコツが必用で、ここ数年は父や母では開閉することが出来ず、私が力を入れないと開閉できないものでした。
ですから、今回店を立て直すにあたって、どうしてもこの扉だけは付け替えたかったのです。で、こうした蔵の扉を扱う専門の業者があって、宝田工業という会社が、以前は質屋組合の名簿や質屋業報という業界誌に広告を出していたのですが、最近は出さなくなってしまい、業界の先輩に聞いても、既に倒産したんじゃない?という話でした。そのため他の業者を探さなければならなかったのですが、鋼鉄製の扉が本当に防火扉であるのか?というのは甚だ疑問だったのです。
倉庫の扉の接合部はこのように階段状になっています。
実は冒頭の話には続きがあって・・・、
『だけど火事が収まった後でも、すぐに蔵の扉を開けてはいけない!一昼夜何百度の火災の中にあった蔵の中の温度は高熱で、扉を開けた途端、空気が入って中の物はみんな燃えてしまう。家事が収まって一週間して自然に冷えてから開けなさい。』
そりゃそうです。たとえ蔵の壁が大震災や大空襲による火災の熱を防いでも、これだけ大きな面積を熱伝導率が大きい鋼鉄製の扉で塞いでいたら、内部の温度はすぐに外と同じになってしまいます。当時の質草が着物ばかりだったので、内部が高熱になっても、燃えさえしなければ残すことが出来たのでしょう。
ところが、今の質草の大部分を占めるのが貴金属と宝石類、それにブランドバッグやカメラ、パソコン、ギター、どれも100度の熱に耐えられるとは思えません。
ですから、現在、鋼鉄製の扉を使った質屋というのは、実際にはお客様からお預かりした品物を大火から守る事は出来ないものだったのです。
少し考えれば分かる事のはずですが、みんな無理やり考えないようにして、どうせ大火など起きないと思っていたのですね。
私は今後も質屋をやっていくのなら、頑丈なうえに内部に熱さえも伝えない完璧な防火扉にしたいと思っていたのです。
今回、母屋の建て替えと倉庫の改修を行うにあたって、業者であるセキスイファミエスに相談したところ、それでは現在の技術で考えうる最高の防火ドアを付けましょう。という事になり、質屋を管轄する所轄の警察の生活安全課とも連絡を取ったうえで、国土交通省の最高の基準を満たしたLIXILのドアを付けることになりました。
今回のドアは、耐熱素材の特殊アルミ合金製。
重さは軽く厚さも以前までの鋼鉄製ドアとは比べ物にならないほど薄いものですが、
H2aロケットのノーズコーンや10式戦車の装甲板と同じように、セラミックスなど断熱物をサンドイッチした構造で、現在の日本の技術ではこれ以上ない耐熱性と、防弾性・・・はこの際関係ないか?、、とにかく頑丈なドアです。
先日、ご紹介した蔵の鋼鉄製窓については、新店舗完成後の仮店舗解体と同時に、
内部から断熱材とセメントで固めてしまい開かない構造にします。
これで、本当の意味での耐火倉庫が出来ました。
大火災でも爆撃でも大丈夫です(核爆弾を除く)。
皆様の大切なお品物をお預かりする準備は整いました。
【追記】文中の蔵の扉を作っていた専門業者・宝田興業(株)は倒産した訳ではないそうです。
毎年載っていた組合の名簿や質屋業報という業界誌に広告が出なくなったので、潰れたのではないかと聞いていたのですが、営業規模を縮小して広告費を見直しただけのようでした。訂正いたします。